「オリンピックは日本で開催するからこそ価値がある」嘉納治五郎の想いを専門家に聞いてみた

ささえる
「オリンピックは日本で開催するからこそ価値がある」嘉納治五郎の想いを専門家に聞いてみた
去年12月に放送を終了したNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』。本作ではJSPO、日本スポーツ協会(作中の時代における名称は大日本体育協会)のメンバーとして、オリンピックの日本開催に魂を燃やした人物たちが描かれています。

中でも、JSPOの創設者である嘉納治五郎(かのう じごろう)は、全国へのスポーツ(体育)振興に心血を注ぎ、オリンピック日本開催のために命を燃やしました。

延期になってしまったものの、2020年オリンピック東京大会開催が実現し、国民のスポーツへの関心がより一層高まる中、今回はそんな嘉納治五郎の人物像を探るため専門家にインタビュー。

著書『現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか』で嘉納治五郎についての研究をまとめている、筑波大学教授の菊 幸一(きく こういち)先生と、日本大学教授の森丘 保典(もりおか やすのり)先生にお話を伺い、嘉納治五郎の想いを紐解きます。
※JSPOの名称は以下の通り時代とともに変化しました。本記事で紹介しているドラマや著書内ではその当時の名称を採用していますが、本記事では現在の名称である日本スポーツ協会の略称である「JSPO」に統一しています。

1911〜1947年:大日本体育協会
1948〜2017年:日本体育協会
2018〜現在:日本スポーツ協会

菊 幸一(きく こういち)

・筑波大学所属教授

・経歴:1957年、富山県生まれ。筑波大学大学院博士課程体育科学研究科単位取得退学。教育学博士。体育社会学、スポーツ社会学を専攻。九州大学、奈良女子大学を経て、現在、筑波大学体育系教授。日本体育学会副会長、同学会体育社会学専門領域代表、日本スポーツ社会学会会長、JSPO国民体育大会委員会副委員長等を務める。

・著書:『よくわかるスポーツ文化論改訂版』(共編著、ミネルヴァ書房、2020)、『<ニッポン>のオリンピック』(共著、青弓社、2018)など。

森丘 保典(もりおか やすのり)

・日本大学スポーツ科学部教授(前職:JSPOスポーツ科学研究室・室長代理)

・研究分野:コーチング学、トレーニング科学

・社会的活動:JSPO国体委員会委員、日本オリンピック委員会強化スタッフ、日本陸上競技連盟科学委員会副委員長、日本アンチ・ドーピング規律パネル、日本コーチング学会理事など

・著書:コーチング学への招待(大修館書店)、スポーツと君たち―10代のためのスポーツ教養(大修館書店)、競技力向上のトレーニング戦略(大修館書店)、身体運動のバイオメカニクス研究法(大修館書店)など

私たちがスポーツを楽しむための基盤を作った嘉納治五郎

ーーまずは、著書『現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか』が発刊されたの経緯を教えてください。

森丘先生
森丘先生

本書は、JSPOが2011年に100周年を迎えるにあたって、その創設者である嘉納治五郎の功績について批判的に検証しようという目的で立ち上げられたプロジェクト研究の成果をまとめたものです。

このプロジェクト研究では、2010年から3年間、JSPO創成期におけるオリンピック、体育、柔道と嘉納治五郎との関わりを振り返りながら、現代的なスポーツにおける現状・課題を明らかにして新たなビジョンを提示することを目指しました。

ーー昨今ではスポーツ界でも様々な問題が浮き彫りになってきていますよね。

森丘先生
森丘先生

そうなんです。スポーツ界はもちろん、現代社会が抱えている様々な問題に対して、嘉納治五郎の実践から何かヒントが得られるのではないかと考えたのも研究のきっかけの一つでした。

ーー近代において他にも多くのスポーツ功労者がいる中、嘉納治五郎に着目した理由を教えてください。

菊先生
菊先生

もちろん嘉納治五郎がJSPOの創始者であるという点は大きな理由です。

彼は柔道の創始者であるとともに、日本へオリンピックを誘致しようと試み、また生涯にわたる国民体育の振興を掲げました。

現在、私たちがスポーツを楽しむための基盤を作ってくれたといっても過言ではない人物です。

だからこそ、このタイミングで"なぜJSPOを設立したのか"という意図を、あらためて歴史的に評価する必要があると思いました。

ーー実際に創立100周年を迎えたタイミングで、JSPO・JOCでは嘉納治五郎の言葉をもとにした「スポーツ宣言日本」を発表しましたね。

菊先生
菊先生

「スポーツ宣言日本」は次の100年で、私たちがスポーツとともに目指すべき方針を書き記したものです。

両者はもともと一つのJSPOとして創設されました。彼が、政府機関ではなく、民間のスポーツ統括組織として作ったというところに、"社会のスポーツの有り様"を考えるためのヒントが隠されているのです。

1940年、嘉納治五郎が目指したのは"日本的なオリンピック"

ーー社会的情勢から返上を余儀なくされ、のちに「幻」と呼ばれる1940年のオリンピック東京大会について。嘉納治五郎は、なんとか開催を実現しようとする最中、道半ばで倒れてしまいました。

菊先生
菊先生

当時は国の圧力がかなり大きかったので、嘉納治五郎自身も「おそらく開催は無理だろう」と踏んでいたのではと考えています。

道半ばで倒れてしまったのは無念だったと思いますが、彼が命を燃やした日本でのオリンピック開催が返上されたことを見ずに亡くなったのは、ある意味救いだったのではないでしょうか。

森丘先生
森丘先生

私も同意見です。ただ、今の時代から眺めてみると、むしろあの社会情勢のなかでよくあそこまで開催に向けて活動できていたなあと、感心してしまうくらいです。

ーーでは、どのみち開催は難しかったと?

菊先生
菊先生

そうですねえ、仮に存命だったとしても、あの情勢を押し返して開催までこぎつけるのはとても難しかったと思います。

ただ、非政府組織というJSPOの立ち位置からみても、当初はあまり政府の影響は受けていませんでした。

「平和の時代ではないからこそ、平和の象徴であるオリンピック・ムーブメントに価値があるんだ!」という、主張ができていたんですね。

それを考えると、そのときのJSPOは、現在以上にパワフルに活動をしていたのではないでしょうか。

ーーなるほど。では彼のオリンピックに対する強い想いは、どこから来ているのでしょうか?

森丘先生
森丘先生

まず、嘉納治五郎には、東洋的な思想や文化、言いかえれば日本という国の文化を欧米に強くアピールしたいという思いがありました。

彼はオリンピック招致の過程で「これまで日本は、オリンピックに参加するために遠く欧米まで足を運んだ。今度はあなた方か来る番だ」と強く主張し、オリンピックを世界的に広めていくためにも東洋で開催するべきだと訴えました。

その思惑の裏には、東洋と西洋の文化を融合させたいという意図があったのかもしれません。

菊先生
菊先生

嘉納治五郎は英語も達者で国際的。いわゆる国際文化人なんですね。心と身体の調和を大切にした古代オリンピックの本質(=ヘレニズム思想)もしっかり理解していたと思われます。

そのうえで「日本には日本の考え方や価値観がある」として、これをオリンピックの中で発信していこうとしていました。

ーー嘉納治五郎の悲願は1964年に開催されたオリンピック東京大会でようやく実を結びました。日本のスポーツ界にとってはどのような影響があったのでしょうか。

森丘先生
森丘先生

その当時、嘉納治五郎はすでに亡くなっていましたが、1964年のオリンピック東京大会招致でも彼に深く関わりのある人脈が貢献しました。

蓋を開けてみれば、合計で16個もの金メダルを獲得。戦後復興を果たした日本をアピールする大きなきっかけになりました。その意味で、この大会で彼の悲願がようやく実現したといえるのかもしれません。

ーー金メダル合計獲得数16個は、今も塗り替えられていない最多記録です。

森丘先生
森丘先生

この1964年東京大会は、競技場の整備などの"ハード面"だけではなく、スポーツの科学的研究の推進や、スポーツ少年団の発足など、オリンピックのレガシーとなる"ソフト面"の振興にも大きな影響があったといえます。

菊先生
菊先生

今のお話を補足すると、たしかに1964年の東京大会では、金メダルの合計数で見ると輝かしい成績を残しましたが、逆に陸上競技や水泳競技ではほとんどメダルを獲得できず、日本はショックを受けていました。

ソフト面に動きがあったのはこういった背景で、ジュニア世代の育成やトレーニング研究を促進するきっかけになったんです。

水泳や体操などは学校だけでは十分な環境を整えるのが難しいということもあり、民間産業としてのスポーツクラブも盛んになるきっかけになりましたね。

柔道家であり教育者としての顔を持つ嘉納治五郎

ーー当時のIOC委員長クーベルタンと親交の深かった嘉納治五郎ですが、彼のオリンピック的思想のどのような部分に共感したのでしょうか。

森丘先生
森丘先生

先ほど菊先生のお話にもあったとおり、元来のオリンピズム(教育的理念)というのは、「調和のとれた人間の発達」を通した「国際社会の平和」を重要なものとして捉えています。

この、"個人の成長が社会を平和的に発展させる"という考え方は、嘉納治五郎が大切にしていた"自他共栄(=互いに信頼し、助け合うことができれば、自分も世の中の人も共に栄えることができる)"という考え方と親和性が高かったといえるでしょう。

クーベルタンも古代オリンピック的思想を研究していたので、嘉納治五郎が日本の思想や文化を広げていく場として、お互いにオリンピックへの共通理解を深めていったシーンがあったかもしれませんね。

菊先生
菊先生

クーベルタンは、ヨーロッパの争いを政府に任せっきりにしていても、根本的な解決はしないという強い意識を持っていました。彼もまた非政府組織こそ、平和を実現する重要な要素だと考えています。

ある時イギリスで、クーベルタンは子どもたちが夢中になってスポーツをしている姿を見かけました。競い合いながらも、お互いが友好を深め合っているその姿に深く感銘を受け、それが彼のオリンピック的思想の原点の一つとなるんです。

けれど、自分たちの世代の凝り固まった考え方ではその実現は難しい。だからこそ、クーベルタンは次の世代にその想いを託そうとしたんですね。

ーー嘉納治五郎も青少年の健全育成や教育を重視していましたね。

菊先生
菊先生

まさしくそのとおりで、嘉納治五郎が教師になったのも、「子どもたちを正しく導くには、それを教える先生を糺さねばならない」と考えたからです。

嘉納治五郎とクーベルタンの親交が深かったのは、こうした部分で大きな共鳴があったからといえます。

嘉納治五郎の残した想いを忘れない。日本スポーツの将来あるべき姿とは

ーー専門家からの視点で見たとき、”スポーツ”のあるべき姿とは何でしょうか。

森丘先生
森丘先生

スポーツ宣言日本では、スポーツを「自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の文化」と定義しています。

「楽しみ」と一口に言っても、スポーツは、遊び(プレイ)の一形態である行為そのものの楽しさと、苦しい練習や努力の積み重ねによる上達や成長を楽しむという、2つの"楽しさ"が含まれている文化といえます。

この二つの楽しさを一人でも多くの人に広めることこそが、スポーツを文化として味わうことにつながるんじゃないかなと思います。

菊先生
菊先生

たとえばサッカーやラグビーのルール。「手を使ってはならない」「ボールを前に投げてはならない」という制約(ルール)がある方が、実は楽しいんだということを発見した人たちがいるわけです。

これはつまり、暇を持て余した人たちのことで、こうした人たちが自発的に発明したのが近代スポーツなんですね。

スポーツというのは、こうした共通のルールに縛られることで、国や言語、生活環境が違う人たちが自発的に楽しめる稀有な文化です。これからどこに向かうにしても、この原点を忘れてはならないでしょう。

ーー嘉納治五郎の想いから始まったJSPOとしては、どのようにこれに貢献できるとお考えでしょうか?

菊先生
菊先生

JSPOの役割としては、民間のスポーツ統括団体として、この変わらぬ原点に返り、全国に伝えていくこと。これが大きな使命だと思います。

また、嘉納治五郎やクーベルタンが、次世代のために残したスポーツ教育というレールをさらに発展させていくことも重要です。

森丘先生
森丘先生

嘉納治五郎は、柔道修行において「講義」と「問答」を重視したといわれています。

「講義」とは、文字通り言葉で理論や心がけなどを指導することの大切さを説いています。

「問答」は、師弟の間で質疑応答を繰り返しながら、技の習得を目指していくことです。

昨今のスポーツ界の師弟関係や上下関係ではむしろ"問答無用"というふしもありますが、当時から言葉や対話を重視していた嘉納治五郎の姿勢は、理論と実践の大切さ、言いかえればスポーツ科学の本質を見通していたと言えるのではないでしょうか。

菊先生
菊先生

私もいまの日本のスポーツ界では、こうした「講義」と「問答」が形式的なものになってしまっている気がしていますね。

嘉納治五郎が大切にしていたものを忘れないように、しっかりとアスリートを指導するための土壌が作られることを願っています。

ーー本日はありがとうございました!