【パラアルペンスキー/パラ陸上 村岡桃佳選手インタビュー】 日常生活で制限や不便を感じることもあるなか、自分を表現できる場所があるというのはすごく素敵なこと。それがパラスポーツの魅力だと思う。

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【パラアルペンスキー/パラ陸上 村岡桃佳選手インタビュー】 日常生活で制限や不便を感じることもあるなか、自分を表現できる場所があるというのはすごく素敵なこと。それがパラスポーツの魅力だと思う。
小学生のときにチェアスキーと出会い、中学生で本格的に競技を始めた村岡桃佳(むらおか・ももか)選手。高校2年生(17歳)で日本代表に選出されると、その年のソチ2014冬季パラリンピックでは大回転で5位入賞。日本選手団の旗手を務めた平昌2018冬季パラリンピックでは、大回転での金メダル獲得を含む出場5種目全てで表彰台に上がり、冬季パラリンピックにおける日本人選手史上最年少の金メダルおよび日本人選手最多の1大会5個のメダルを手にしました。
日本選手団の主将として出場した北京2022冬季パラリンピックでは、金メダル3個、銀メダル1個を獲得するなど、数々の偉業を達成されてきた村岡選手に、パラスポーツの魅力などについてお話を伺いました。

チェアスキーなら雪の上でも自由に動けて、普段感じることのできないスピードを体感できる。

--チェアスキーを始めたきっかけは?

まず、小学2年生のときにパラ陸上競技と出会い、趣味の延長のような感じで週に1~2回練習して、陸上競技の大会があればそれに出るという感じでした。チェアスキーは、その陸上競技を通じて出会った同じく車いすで生活している友達から、体験会に誘われたのがきっかけです。
確か2泊か3泊する体験会でしたが、1日目の終わりごろには少し補助してもらうくらいで滑れるようにはなって、すごく楽しかったのを覚えています。以来、そういったイベントに毎年参加して、そこで知り合うチェアスキーの仲間も増えていきました。そしてイベントだけじゃなく個人的にも誘ってもらうようになって、スキー場に行く回数も増えていきました。

--どんなところに魅力を感じましたか?

車いすに乗っていると、雪の上ではタイヤがスリップしてしまって自由に動くことができません。ですが、チェアスキーに乗れば、雪の上でも自由に動けるし、また普段感じることのできないスピードを体感できる。その自由さやスピード感がすごく好きでした。

--競技をするようになったのはいつ頃ですか?

競技としてのチェアスキーを始めたのは中学2年生の頃です。車いすでの移動となると、アクセスがしやすい場所や環境が整った場所に行くことになるので、そういった理由から当時よく行っていたスキー場が長野県の菅平高原でしたが、その当時、菅平高原はパラ競技スキーのナショナルチーム(日本代表)の活動拠点になっていました。
パラのトップアスリートたちの滑りは「すごい!」のひとこと。滑りの次元が違うというか、もう別世界、本当に雲の上の存在でした。それまでもいろんなスキー場に行くなかで競技スキーの選手たちに会う機会はありましたが、実際にコースを滑る姿を見たのはそのときが初めて。とにかく迫力がすごくて、かっこいいし、きれいだなと思いました。
そうしたらコーチに「桃佳も(競技スキーに)入れてもらってきなよ」と言われて。実は私をチェアスキーに誘ってくれたのも、指導してくれたのも、元パラリンピアンの方。私を選手たちに紹介してくれて、試しに一本滑ってみましたが、その時は「いや、もう全然無理!」って感じでした(笑)。でも、行くたびにコースを滑らせてもらって、少しずつ滑れるようになっていきました。
チェアスキーをしている人たちのなかでは、女子や若い選手が少ない。そもそもの母数も少ないですし、冬の競技で、ましてや雪の上に行くというのは車いすユーザーにとってすごくハードルが高い。しかも女性だと、着替えやお手洗いなども含め、移動のハードルはさらに高くなります。
そういったなかで、若い子が来てくれたということで、まわりの方々が気にしてくれて、「一緒に滑ろうよ!」と声をかけてくれたんです。
競技を始めた頃は、月に1~2回はスキー場に行っていました。菅平高原のスキー場に行くと、だいたい午前中にそのナショナルチームが旗を立てて練習しているので何本か滑らせてもらって、それが終わってから午後の時間は、いつも通りに楽しくフリースキーでターンの練習をするというスケジュールになっていました。

--競技スキーの印象は?

それが、正直最初のうちは競技スキーが楽しくなくて…。というのも、もちろん上手にできないからというのもありましたが、自由さを奪われる感じがして。
競技スキーは「制限スキー」と言われることもあり、旗と旗の間の決められたコースを滑るので、自分の思い通りに滑れません。私の好きなスキーの良さがどこにもないと思って、初めの頃は全然楽しくなくて、すごく嫌いでした(笑)。
ですが、少しずつできなかったことができるようになっていって、午前中上手くできなかったターンの練習などを午後にするのですが、そうすると翌日や翌週とかに行ったときに、「ターンがうまくできた」とか、「速く滑れた」といった発見があるんです。そういう積み重ねで、少しずつ楽しいって感じられるようになっていきました

--中学や高校時代はどのように過ごされましたか?

中学生や高校生のときは、平日は学校に行って週末はスキー場に行くという生活でした。高校は地元の私立の高校だったので、平日は朝から夜までずっと学校で勉強して、土曜日は午前中に授業があったので、それが終わったら両親に迎えに来てもらってそのままスキー場に行って、土日をスキー場で過ごして日曜の深夜に帰ってきて、月曜の朝から学校に行くという生活をしていたので、すごく疲れました。
だからといって、学校を休んでいたわけではありませんし、勉強も誰かに言われて取り組んでいたわけではないです。何に対しても全力で取り組む、あまり妥協しないというのは自分の中で学んでいったのだと思います。

正確できれいなターンが自分の強み。高速系種目では100km/hくらい出るので相当怖いですよ。

--レースで滑っているときはどんなことを考えていますか?

レース前にはインスペクションといってコースの下見をする時間があるので、そのときに覚えたコースを頭のなかでずっとイメージトレーニングして、レース中は頭に描いていたことを考えながら滑っています。
私は基本的に結構考えながら滑るタイプ。正確できれいなターンが自分の強みでもあるのでそこを意識していますが、たまに覚えたことが飛んでコントロールを失うこともあります(笑)。
好きな種目は大回転。体重移動することで、スキーのエッジングやターンを操作しています。
使用しているスキー板は競技用のスキー板にチェアを取り付けたものを使用していますが、滑降などの高速系種目では100km/hくらいのスピードが出るので相当怖いですよ。

--滑りを支えてくれている人たちについて。

コーチングスタッフやスキーをチューンナップするサービスマンなどいろんな方のサポートがあって、スキーは個人種目でありながらもすごくチーム感が強いスポーツなんです。滑る順番によってコースの状況も変わってくるので、他の選手が滑っている様子を見ながら状況をスタート付近にいるスタッフに無線で伝えたり、先に滑った同じチームの選手から情報を共有してもらったり、本当にチームで戦っている感じが強いですね。

日頃のキツイ練習に耐えて、いい記録が出たとき、自分が成長していると感じられたときが嬉しい。

--競技をする上で一番心がけていることは?

競技を楽しむこと。私はスポーツが好きだし、楽しいからやっているというのが根底にあります。
私は今、企業に所属してその所属企業の選手としてスポーツに取り組んでいて、ある意味スポーツをすることが仕事でもあるわけですが、それだけではなく、私はただスポーツが好きで楽しいからやっているという部分が大きいですね。
日頃の練習はもう吐きそうなくらい辛いので、そのめちゃめちゃきついなかで楽しいとは全く思いませんが、その日の練習が終わって、汗だらだらになりながら「ふぅ」とリラックスしたときに、それでも今日の練習楽しかったなって思えたり、大会に出ていい記録が出たときにそのやりがいを感じます。
そんなとき、やっぱりスポーツは楽しいと思うし、少しでも自分の成長が感じられたときにはもちろん嬉しいし、そういった部分での楽しさというのは、自分のなかでやっぱりスポーツに取り組む上ではすごく大事にしているし、忘れないでいたい部分ですね。
いい走り、いい滑りができたとき、いい成績が残せたときは最高に楽しい。毎日、それこそ血反吐を吐くような思いをして練習をしているので、その努力が結果として現れたときはやっぱりめちゃくちゃ嬉しい。そのためにやっていることですからね。

ソチでの悔しさが原動力に!平昌では自分が思っていた以上の成績を残すことができた。

--チェアスキーでパラリンピックを目指すという想いはありましたか?

チェアスキーを始めてからも、陸上競技をメインでやっていました。スキーは冬の間しかできないシーズンスポーツなので、陸上競技をメインでやって、冬になったらスキーもやるという感じでした。
なので、サッカーや野球をしている子が、プロのサッカー選手や野球選手になりたいと思うのと同じように、私も子どもの頃の漠然とした夢として、パラリンピックに出たいとは思っていましたが、それがスキーでというわけではなく、ただただ“パラリンピックに出たい”という気持ちでした。
その気持ちが実現したのは、競技スキーを始めて3年後の高校2年生(17歳)のとき。ソチ2014冬季パラリンピックに出場しましたが、スキーに関しては、最初はパラリンピックを目指すというよりも、周りから固められていったという感じでした。
毎週のようにゲレンデに連れて行ってもらったり、高価な用具を揃えてもらったり、家族に負担をかけているなと感じていましたし、いろいろな方々がサポートしてくれるなかで自分は頑張らなければいけないと。結果がついてこないときでも諦めてはいけないと、自分のなかで葛藤していた時期もありました。

--パラリンピックで活躍されるなかで一番印象に残っているのは?

平昌2018冬季パラリンピックで金メダルを獲ったときですね。
初めてパラリンピックに出場したとき(ソチ2014)は、夢が叶った瞬間であり、最初、気分も舞い上がっていましたが、自分の競技日程(ソチ2014は3種目出場)が近づくにつれて、やはり4年に1度のパラリンピックという大会の重さを徐々に実感し始めました。
日頃の大会とは全然違うことを肌で感じ、初日のレースは自分の思っていた通りに全然滑れなくて、すごく悔しくて。最終日、最後の種目が一番得意な大回転だったので、後悔したまま終わるのは嫌だなと思って、そのときの自分のベストは尽くして5位になりましたが、不甲斐なさというかやるせなさをすごく感じ、目の前で表彰式がおこなわれているのを見て、4年後は絶対に表彰台に立つんだと強く誓いました。
そういう気持ちを抱いて4年間取り組んできて、その結果、平昌2018では、金メダル1つと銀メダル2つ、銅メダル2つ、全種目でメダルを獲ることができたので、想いが詰まっているというか、その想いを達成できたことがすごく嬉しかったです。努力が報われたと思えた瞬間でしたね。

--東京2020パラリンピック(夏季)では陸上競技に出場されましたが、そのモチベーションは?

ソチ2014から平昌2018まで4年間本気で、それだけに向かってがむしゃらに取り組んできたので、平昌である意味燃え尽きたというか、「次に何を目指せばいいんだろう?」「これからどうしたらいいんだろう?」と思っていました。
そうなったときに、次の夏季オリンピック・パラリンピックが東京で開催されることなどから、陸上競技への挑戦を考えるようになりました。
昔、競技スキーでパラリンピックを目指すと決めてからは、陸上競技から自然とフェードアウトしていたので、どこか少し自分のなかに心残りの部分があったこともあり、そこで、平昌2018で自分が思っていた以上の成績を残すことができたからこそ、次の一歩を踏み出すことができました。
陸上競技に挑戦するにあたっては、東京2020出場を目指すというよりも、昔の趣味よりももう少し高い競技レベルで本気で陸上競技に取り組んでみたいなと思ったことが一番です。

--競技レベルで取り組んだ陸上競技はどうでしたか?

高いレベルでの陸上競技を始めるにあたっては1人では限界があると思い、岡山県に車いす陸上競技の実業団チームがあるという話を聞いたので、そこで指導をお願いすることになりました。
初めてフィジカルチェックとして競技用の車いすに乗って走ったときは、コーチから「陸上競技として、100m走るだけの身体が何もできてないね」と言われました。
なんだかんだ言っても、自分は冬季のパラリンピアンで金メダリストだし、4年間メダルを獲るという目標に向けて真剣にトレーニングに取り組んできたというプライドもあったのですが、その言葉に本当に心が折れました。
スキーと陸上競技では競技の特性も違いますし、最初の頃は全く練習についていくことができませんでした。陸上競技はスピードがゼロの状態から自分で力を生み出していかなければならないので、フィジカルの強さは陸上競技のほうが必要になるというのが正直なところ。
そのこともあり、スキーをおこなう上でもフィジカル強化が図れるといった考えもありました。結果、スキーのターン中に姿勢が安定し、荒れた斜面でも安定して滑れるようになったと感じています。

まずは触れてもらうこと。パラスポーツに触れる機会を増やすことで、その楽しさや魅力を伝えていきたい。

--今後の夢をお聞かせください。

スキーと陸上競技の二刀流でやっているというふうに言ってもらうことが増え、誰も歩いたことのない道を進むパイオニアとして取り上げていただくこともありますが、私にはそういった意識はなく、自分がやってみたい、挑戦したいと思ったことを挑戦しているだけですし、それを応援してくれている、サポートしてくれている人たちがいるからこそできることだとも思っています。
そういった方々に、感謝の気持ちを持って真摯に取り組まなければいけないと思うし、その結果として成績がついてきてくれれば嬉しいと思っています。自分が社会を変えてやるぞ、という気持ちよりは、そういった自分の取り組む姿を見て、誰かが何かを感じ取ってくれれば嬉しいと思います。

--パラスポーツ人口を増やすために必要だと感じることは?

パラスポーツって、例えば身近なところでいったら、車いすバスケとか認知度が高いと思いますが、車いすバスケをするにしても競技用の車いすが必要になります。一番大きなハードルは用具の部分なんです。やったこともないのにいきなり高価な用具は買えないでしょうし、例えば、マッサージ機なども実際にお店などで試してから買われる人が多いのではないでしょうか。
それがスキーの場合は、現地に行くまでの交通手段だったり、着いてからのお手洗いや着替えの更衣室だったりと、さらにいろんなハードルがあります。
そこで、例えば一般のスポーツ施設(スポーツセンター)などで1、2台体験用の車いすをおいてもらうとか、パラスポーツのイベントなどを開催するなどして、身近にパラスポーツに触れる機会を増やすことで、パラスポーツの楽しさや魅力を感じてもらえると思います。それが一番大事なこと、まずやるべきことだと考えています。
また、自分がいつまで競技を続けるかわかりませんが、パラスポーツにはずっと関わっていきたいと思っていて、そのなかでパラスポーツの認知度を上げていきたいと思っています。
今はまだ自分自身が競技優先の生活になっていますが、競技を引退したセカンドキャリアとしては、もっといろんなところに行って講演活動などパラスポーツに触れる機会を増やしていく活動をしたいと考えています。

--パラスポーツの魅力は?

障がい者にとって日常生活のなかで不便さを感じていたり、憤りを感じている人が結構いると思うのですが、その人たちが自分らしさを表現できる場所というか、一番表現できる場所がこのパラスポーツの場だと私は思っています。
日頃の制限されていることや不便なことがあるなかでも、自分を表現できる場所があるというのはすごく素敵なことだと思います。それがパラスポーツの魅力や素晴らしさだと思います。

〈村岡桃佳 選手プロフィール〉

村岡 桃佳(むらおか・ももか)
埼玉県深谷市出身。1997年3月3日生まれ。
トヨタ自動車 所属。
4歳の時に病気の影響で車いすでの生活となった。小学校3年時にチェアスキーと出会い、中学2年時に競技スキーの世界へ入る。17歳で日本代表に初選出。ソチ2014冬季パラリンピックに出場し、大回転で5位入賞。日本選手団の旗手を務めた平昌2018冬季パラリンピックでは、大回転優勝を含む出場5種目全てで表彰台に上がり、冬季パラリンピックにおける日本人選手史上最年少の金メダル、また日本人選手最多、1大会5個のメダルを手にした。翌年春からはパラ陸上競技短距離にも本格的に取り組み、東京2020パラリンピックに出場、6位入賞を果たした。日本選手団の主将として出場した北京2022冬季パラリンピックでは、金メダル3個、銀メダル1個を獲得。冬季パラリンピックにおける通算4個の金メダルは、日本選手で単独最多となった。