【バレーボール 髙橋藍選手インタビュー】 今は人生がバレーボールというか、バレーボールが僕の人生をつくっている感じ。本当に心から好きだなって思っています。

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【バレーボール 髙橋藍選手インタビュー】 今は人生がバレーボールというか、バレーボールが僕の人生をつくっている感じ。本当に心から好きだなって思っています。
写真提供:月刊バレーボール

日本代表として東京2020オリンピックを経験したのち、活躍の場をイタリアへ。世界のレベルを身をもって知ることで、さらなる飛躍を遂げた髙橋藍選手。2024年5月、今年新たに始まるSVリーグのサントリーサンバーズ大阪に入団を発表。日本に戻ってのプレーとともに、高校生以来となる、実の兄(髙橋塁選手)と同じチームとなることも話題を呼びました。
大好きなバレーボールのことをより多くの人たちに知ってもらうために、積極的にSNSなどで情報を発信し続ける髙橋選手に、バレーボールの魅力などについてお話を伺いました。

兄がやっていたから始めたバレーボール。後を追うように京都市のスポーツ少年団に入団。

--バレーボールを始めたきっかけは?

小学2年生のときに2歳上の兄の影響でバレーボールを始めました。「樫原(かたぎはら)バレーボールクラブ男子」という、京都市にあるスポーツ少年団のチームで、楽しむときは楽しむ、ちゃんとやるときはやる、といったメリハリがあるチームでした。

--バレーボールを始めてみてどうでしたか?

チームに入る前に、兄のバレーボールの練習について行って、ボールを触ったりしていたし、イメージは持てていたので割とすぐ馴染めました。レシーブとかはすぐにできたので、すごく楽しかったことを覚えています。
ですが、最初は習い事とかはしたくなかったし、バレーボールが特別好きというわけでもなく、いろんなスポーツをやるなかで、“お兄ちゃんがやってるから僕もバレーボールをやる”みたいな感じでした。兄が小学校を卒業するときとかは、僕も「辞めたい」と言っていましたし(笑)。
中学(京都市立蜂ヶ岡中)でも兄がいるからバレーボール部に入る、とずっとそんな感じでしたから、その頃もバレーボールに対してめちゃめちゃ好きかと言われると、そうでもなくて、もう始めたことだから続けているといった感覚でずっとやってましたね。

コーチの本格的な指導や、ライバル校の存在など、高校時代にバレーボールの技術や意識が大きく変わった。

--高校もお兄さんのいる東山高校に進学。バレーボール部には松永コーチがいらしたんですよね?

僕が東山に入学した年に、選手としても活躍された松永コーチ(現在は監督の松永理生氏)が来て、本格的に技術指導をしてもらいました。スパイクの打ち方やハイボールの打ち方など一つひとつ教えてもらって、バレーボールってこんなに新しい技があるんだと思いました。
松永コーチは石川祐希選手を指導された方なので、石川選手の話を聞かせてもらったりしているうちに僕も海外への意識が出てきましたし、松永コーチからいろんな影響を受け、いろんなことを学びました。

--京都には同じく強豪校の洛南高校がありますね?

そうですね。洛南は常にライバル校で、すごくバチバチしていました。バレーボール以外にもバスケットボールも洛南vs東山でよく決勝戦をしていて、常に因縁というか、ライバル視している高校でした。
ですが、達宣さん(※1)とは仲が良かったというか、結構会話していたことを覚えていて、山本龍選手(※2)もそうですけれど、選手たちはそこまでバチバチしていなくて、ライバルでありながらお互いを応援し合うというか、高め合うというところはありましたね。
試合中はさすがに話しませんが、開会式や表彰式とかは意外としゃべっていて、京都府大会でもどちらかが優勝したときに、「おめでとう」とか「がんばってね」という感じに声を掛け合っていました。
※1 大塚達宣選手:日本代表/パワーバレー・ミラノ(イタリア)所属
※2 山本龍選手:日本代表/2024年8月末からアオンズ・ミロン(ギリシャ)に所属

--中学・高校を通じてバレーボールから学んだことは?

社会で生きていく力のようなものを学んだと思います。社会で生きていくために何が必要なのかとか、いろいろと理不尽なこともありましたが、そういうのは本当に社会で生きてくために必要というか、当然あることだと監督から常に聞かされていて、そういうところは本当に今でも自分のなかに活きてるなと思います。
あとは礼儀であったり、スポーツマンとして自分自身で身のまわりのことはやるとか、そういう部分というのは今でもすごく僕のなかで活きていることだなと思いますね。

常にトップ選手を相手にする環境のなかで、自分が結果を出していくことで、そこで戦っていける選手なんだという自信がついた。

写真提供:月刊バレーボール

--大学2年生でセリエAに挑戦されますが、どうしてそのタイミングで海外に?

一番は東京2020オリンピックですね。僕のなかではすごく悔しい思いがあって、トップの国々と対戦していくなかでまだまだ自分には力が必要なことを感じたし、もっともっと海外との差を埋めなくてはと強く思いました。
海外を経験できていたらもっといい成績で終われたんじゃないかなという思いがすごくあったので、海外に行って強くなりたいと。石川選手を見ていても、海外で成長される姿を見ていたので、やっぱり環境を変えてやることが大事だと思い、海外挑戦(イタリア行き)を決めました。
東京2020オリンピック以後いろんなことに挑戦し始めて、バレーボールを通していろんな経験をしてきたので、本当にオリンピック以降、バレーボールが好きだなという想いがより一層強くなったと思います。

--実際に行ってみていかがでしたか?

やっぱり世界のトップ選手がイタリアに集まるので、そういったすごい選手たちと常に対戦していくので、名前負けしなくなったというか、もう恐れなくなりました。
常にトップ選手を相手にしているとそれに慣れてきて、そのなかで自分自身が結果を出していくことで、自分もそこで戦っていける選手なんだという自信がつきましたし、常にトップレベルでバレーボールをしているので高さもパワーも、もう全てにおいてレベルアップしたと感じています。
技術的なこともそうですが、メンタルの保ち方や、考え方などはすごくて、例えばミスをしても考えすぎず、しっかりと切り替えが早いので、負けた試合でも、次の日にはしっかりと切り替えができている。なんでもポジティブに考える、特にイタリアの方々はそういう考えを持っていたのでそれは僕にとってすごくいい学びになりました。

--イタリアで苦労されたことは?

やっぱり最初は言葉が話せなかったことですね。例えばディナーやパーティーに行くにしても、話(言葉)がわからないから、楽しくないし、相手にも気を遣わせてしまう。なので自分からそこを避けていたときもありましたし、チームメートもそれを知ってか次第に誘われなくなったり、誘ってくれても断ったりしていたので、言葉が通じないことは最初本当に苦労しました。
イタリアに行ったシーズンの終盤か2~3ヵ月ぐらい経った頃にはチームメートと話せるようになろうと思い、自分から話しかけるようにしました。僕も結構ノリがいいので、「面白い奴だな」と覚えてもらってさらに話すようになりました。
パッラヴォーロ・パドヴァ(セリエAのクラブチーム)で2シーズン目のときには、英語も上達してイタリア語と混ぜながら話せるようになっていたので意外と慣れるのは早かったですね。
もともと僕は性格的に明るいので海外の選手と気が合うというか、ノリもついてきたりすることが多かったので、チームには溶け込みやすかったですね。それがチームから信頼を得ることに繋がっていたので本当に自分には合っていたんじゃないかなと思います。

--イタリアの方々のバレーボール熱は?

ファンの方々の熱量がとにかくすごい。イタリアは地域で応援するので、モンツァだったらモンツァ愛がすごいですし、ミラノだったらミラノ愛がすごい。やっぱり自分が住んでる地域のチームをすごく熱心に応援するので、だから自分たちがミスすれば怒るし、自分たちが勝てばもう一緒に喜ぶし、その環境はすごくいいなと思いました。一緒に戦っている感じがするというか、本当に地域全体で応援してくれているという感覚なんですよね。

--イタリア生活でのオフの過ごし方は?

オフは週に1日だったので、どこかへアクティブに出かけて行くよりも基本的にはゆっくり過ごしていました。イタリアではよく公園に行ったりカフェに寄ったり、体を休めるという感じのオフの使い方をしていました。カフェでのおすすめは、気分によりますけれど、やっぱりイタリアと言えばカプチーノが王道でしょうね。

県の代表として戦う国体は、インターハイや春高とはまた違った雰囲気がある。

--髙橋選手は国体(国スポ)にも出場されていますが大会の印象などについて?

他の大会と比べてお祭り感のようなものがあると思います。毎回開催地も異なりますし、僕が行ったのは愛媛と茨城で、愛媛だったら「みかん」とかご当地のものを味わったりしてすごく楽しかったし、県の代表として戦う全国大会というところもあって、インターハイと春高とはまた違った少し特別な大会だった印象もあります。
僕たちは少年の部で出場しましたけれど、成年の部があったりカテゴリーが分れていて、より多くの人々が競技としてスポーツを楽しめるし、応援する人も含め、普段スポーツに関わりのない人でもスポーツに触れ合える機会というところが国体(国スポ)という場なのかなと思うので、それは非常にいいことだなと思いますね。

--バレーボールをしていてこれはフェアプレーだと思われることは?

一番のフェアプレーは、審判のジャッジミスなどを、そうじゃないとしっかりと主張できるところ。
プレーによっては審判が見えづらい範囲があるので、自分自身が打ったスパイクを、相手がボールタッチしていないのに、タッチしたと判定されてこちらの得点になる場面もあります。
そうしたときに、今のは(相手は)タッチしていない(打ったスパイクが相手選手の手に触れずにアウトになった)と言えることがフェアプレーであり、相手に対してリスペクトをしっかり持っていることになると思います。

目標は今までいなかった選手になること。そして、バレーボールを夢のあるスポーツにしていきたい。

--髙橋選手はコート外でのファンサービスやSNSなどでも積極的に情報を発信されていますが

僕自身がバレーボール選手に憧れていたし、僕の年代だと福澤達哉さんや清水邦広選手が代表に入られた時代。その頃、いつかこういう選手になりたいと目を輝かせてみていたので、今自分が憧れられる立場になって、ファンの方に対して自分が影響を与えられる存在でいることを理解できているので、だからこそそういう方たちを大事にしたいというか、そういう方々がいるから今こうして自分もいるので、しっかりそこは恩返ししたいという想いでやっています。
SNSでもなんでもそこから自分自身を知ってもらってバレーボールに繋がれば、バレーボールの普及にも繋がりますし、僕という選手のことも知ってもらえるので、バレーボールの未来のためにも必要なことなのかなというのはすごく感じています。
僕は何からでもバレーボールを知ってもらってもいいと思ってますし、自分のSNSを通してからでも全然いいと思っているので、だからこそ僕はそこも力を入れてやっているというか、いろんな人にバレーボールの面白さが伝わればいいなと思ってやっています。

--バレーボールに対する意識も変化してきましたか?

バレーボールでイタリアに渡って、イタリアで友達ができたり、世界各国の選手と知り合えたり、というところで本当にバレーボールを通していろんなことが経験できているので、本当に今は人生がバレーボールというか、バレーボールが僕の人生をつくっている感じ。
だから本当に今はもう心から好きだなって思いますし、やっぱりバレーボールが自分自身を変えてきた、成長させてきてくれたので、今は本当にバレーボールが好きでやっています。

--今後の目標ついて教えてください。

自分が最終的になりたい選手像として、今までになかった選手なりたいっていう目標はあるんですけれど、自分のなかで何か計画的な目標というのは正直立てていません。
大会とかの目標は立てるんですけど、何位になるとかメダルを獲るとか、自分のなかでは目標とか限界を作りたくないというか、常に成長というところを求めてやっていきたいので基本的には目標を立てずにやっていますね。
パリ2024オリンピックは、東京2020オリンピックが終わってから3年間ここにかけてきたので、ここで結果を出すか出さないかというところが、また次に挑戦する道にも繋がりますし、これがまずはひとつの大きな節目というか機会なのかなと思っています。
まずは3年間やってきたことを全て出し切って、目標とするバレーボールを夢のあるスポーツにしていきたいと思っているので、それに向けて頑張っていきたい。
(※インタビューは5月に実施。その後、髙橋選手は日本代表としてパリ2024オリンピックに出場。日本代表はベスト8に進出しました。)
指導者になろうという考えはまだありませんが、自分というバレーボール選手を見て影響を受ける子どもたちも多いと思うので、何らかのかたちで少しでも教えられる機会をつくっていけたらいいかなと思っています。
教えるのは少し苦手なところもありますけれど、子どもたちに対してバレーボールの面白さや、どうしたらうまくいくってところを伝えていくことも僕にとって重要な役割の1つだと思っているので、そこも機会があればやっていきたいなと思っています。

--バレーボールやスポーツを頑張る子どもたちにメッセージをお願いします

今になって言えることではあるんですけれど、失敗を恐れないで。
僕は常にいろんなことに挑戦していて、失敗してもそれが自分にとってはいい経験だと思っているので、若いときにいろいろ経験することって僕はすごく大事なことだと思っています。なので、失敗を恐れずにどんどんいろんなことに挑戦していってほしいなと思いますね。

〈髙橋藍 選手プロフィール〉

髙橋 藍(たかはし・らん)
京都府京都市出身。2001年9月2日生まれ。
サントリーサンバーズ大阪 所属。
2020年1月、春高バレー(全日本バレーボール高等学校選手権大会)で優勝。最優秀選手に選ばれ、2月には、21世紀生まれでは初めてとなる、バレーボール男子日本代表に選出。2021年、東京2020オリンピックに出場。その後、イタリア・セリエAのパッラヴォーロ・パドヴァに2年間の期限付きで入団。2023年7月のネーションズリーグでは46年ぶりとなる、日本男子の主要国際大会でのメダル獲得に貢献。2024年5月、SVリーグ・サントリーサンバーズ大阪に入団。2024年7月、パリ2024オリンピックに中心選手として出場。