ミズノの技術を受け継ぎ、次の世代へ託す。バット職人・渡邉孝博インタビュー

コラム
野球やサッカー、バスケなど、スポーツを楽しむ子供たちにとってスター選手は憧れの的です。その中でもプロ野球選手はテレビやグラウンドでのビッグプレーで観客を沸かせ、多くの人々に夢を与える職業の最たるものといえるでしょう。

スポーツ用品メーカーであるミズノは、長年そんな彼らの活躍を道具で支えてきました。同社には創業以来大切にしている、「ええもんつくりなはれや」という言葉があります。これは創業者・水野利八氏の言葉で、現在でも受け継がれるミズノのモノづくりの精神を表しています。

プロ野球選手の使うバットを一本一本手作業で削り上げるミズノの"バットクラフトマン"は、その精神を体現する存在です。

本記事では、ミズノのバットクラフトマン・渡邉孝博氏に、職人としてバットづくりにかける想いをお聞きしました。

バットクラフトマンとして職人の責務を負うということ

お話を伺ったのは東京ドーム敷地内に併設されている野球殿堂博物館。約4万点もの野球の歴史的資料を収蔵・展示するこの場所では、定期的にミズノの職人による「バット製作実演」がおこなわれています。
実演会では、子供たちをはじめとする多くの人々がその技術を目の当たりにして息を呑みます。また、実際にバット削りの一端を体験したり、職人がバットに関する質問に直接答える質問タイムも。
渡邉孝博氏はミズノ社の社員であるとともに、同社では現在2人しかいないバットクラフトマン。プロ野球界では、これまでにパ・リーグを中心に約2000人もの選手のバット製作を担当してきました。

また、イチローや松井秀喜、落合博満、原辰徳など、名だたる大スターたちのバットを作り続けた名匠・久保田五十一(くぼたいそかず)氏の後継者として、ミズノのモノづくりに対する精神と技術を後世に伝えています。

ーー渡邉さんは「いつ」「なぜ」バット職人になられたのでしょうか?

2001年からバット製作の現場に異動しました。職人として一人でバットを作るようになったのは、それから4、5年経った後ということになると思います。自分自身、初めから久保田名人の後継者として、ミズノの技術を引き継ぐという名目のもと、先輩である名和さんと一緒に勉強を重ねることになりました。

やはりプレッシャーはありましたね。正直、自分はバットの現場へ異動を希望していたわけではなかったので、話をいただいたときは大変驚きました。

見たり遊んだりという程度には野球経験はありましたが、選手としてプレーしたことはなかったので、そんな自分にこの仕事ができるのかという不安が大きかったです。

いわゆるこれまでとはまったく違う畑での仕事でしたし、職人としての責務を負わなくてはならないということも拍車をかけていました。即答はできず悩みました。

ただ、自分と同じ養老工場で働く他の社員の中にも、バットの現場に行きたい人がいる中で指名していただいたことは大変ありがたい話だと思ったんです。プロバット職人は夢のある仕事ですし、できるか分からないがチャレンジしてみようと。その翌日には、闘志・決意を持って臨む自分の意志を会社に伝えました。

ーーミズノグループの社員でもあり、一人の職人でもありますが、技術はどうやって身につけましたか?

実際、5年で一人前の職人になれるとは思っていません。でも、例えば削りに関していえば、目の前にあるバットと同じものをある程度の時間で削り上げることができるようになるためには5年はかかります。職人というのはそこから先、経験値を積んだ後の話で、選手やお客様の求めるものを形にすることができるかどうかなんです。だからこそ「職人」という仕事は非常に難しくて、その肩書は自分で名乗れるものではなく、周りの評価で決まるものだと思っています。

そうした経験でいうと、名人には木の見方を教えていただきました。毎日たくさんの木を見て、目を養っていく。技術を磨くための練習時間はあまり設けられていないので、自分で確保する必要がありました。それに加えて、久保田名人や先輩の名和さんなどの技を見て盗む。特に名人の場合は根っからの職人気質で、自分たちからすすんで教えを請わないと学ばせてはくれませんでしたね(笑)。

自分の師匠はやはり久保田名人でした。この現場に入ったときから横についてずっと学ばせてもらってきました。例えば名人を真似て僕が機械で磨き、削って形作ったバットを、「これはダメや」と名人に見てもらうことを繰り返していました。

それから、材料の選別においても、名人の選び方を見て自分なりに選んだ材料を、「こんなんはこっちやろ」なんて言われたこともありますね(笑)。「あぁ、そのとおりだな」と、一つ一つ学んでいきながら何千本と一緒に材料の選別をおこなってくださいました。

2年弱、いま言ったような研磨や材料の選別しかしていなかった時期がありましたね。こうしたコミュニケーションから様々なことを勉強してきました。

自分が削るのは製品ではなく、"魂のこもった道具"

ーー技術を高めるために普段していることや、気をつけていることは何ですか?

工場はもちろん家族にも迷惑をかけてしまうので、体調には気を遣っています。ただ、技術を高めるためという名目では、何かしていることは実を言うとあまりないです(笑)。名人は毎朝の山登りや腹筋を日課にしていますけども。僕の場合はどちらかというと、工場を出たら家族や子供の時間、自分の時間を大切にしていますね。

職人3人合わせて、年間で約4万本のバットを削ります。そうすると一人あたり1万数千本。それを15年ほどやってきているので、約20万本のバットを今まで削ってきたという計算になります。そう考えると、積み上げたらどのくらいになるのか想像もつかない本数だなあと思います(笑)。

ーーバット職人として、ここは譲れないというこだわりを教えてください。

”作る技術”については多くを学んできて、名人にはまだ及ばずとも任せてはもらえる域にはなったのかなと。だからこそ名人も安心して引退したんだとは思いますね。

気持ちを込めてバットを作るということを大切にしていきたいです。作る相手がどんな選手でも、一般のお客さんでも、自分の作るバットで1本でもヒットを売ってほしい。その気持ちが伝わるかどうかはまた別の話なんですよね。

製品というより、"魂のこもった道具"としてお渡ししたいという気持ちが強いです。名人はそうした部分ですごく熱い想いを持ってバットを削っていました。

ーーバットをつくる際、選手一人ひとりに合わせた調整をすると思います。どの様に選手の好みや要望を反映させていますか。

僕はパ・リーグのバット製作を担当していて、だいたい毎年100人くらいの選手には自分の削ったバットを使ってもらっています。なので、これまでに担当した選手は2000人弱くらいでしょうか。

主に春季キャンプのときには、担当している選手全員とお話できるよう訪問をしています。できるだけ実物のバットが近くにある状況でお話しするのがいいと思うので、前のシーズンに使っていただいたバットを元にして、一人ひとり調整や要望を聞いていきます。あとは選手がオフのときに工場を訪問してくれることもある。

選手によっては遠慮してしまう方もいらっしゃるので、できるだけこちらから引き出してあげることが大事だと思っています。引き出すのが上手かどうかは分かりませんが(笑)。

クラフトマンとしては、こうした選手対応やコミュニケーションも仕事の一つです。その積み重ねが、選手の望むバットを作り上げるための勉強でもあります。

受け継いだ技術を、今度は自分が誰かに伝えることが使命

ーー渡邉さんの思う"良いバット"とは何か教えてください。

僕は1年間のシーズンが終わって、担当の選手に「ありがとうございました」とお礼を言われたとき、初めてその選手に対しての仕事を終えたという感覚になるんです。

だから、良い仕事ができたというのは、そういった言葉をかけてもらえたときであって、“良いバット”を決めるのは、選手やお客さんなど、使う人だと僕は思います。

ーーバット職人として目指すところを教えてください。

我々職人の技術というのは個人のものではありません。自分でいえば名人や名和さんから受け継いだものなのです。これを今度は自分も誰か他の社員に伝えることが、一つの使命だと感じています。

個人的には「こんな風になりたい」と目指してもらえるような職人になりたいですね。選手が引退するときに、「渡邉さんにバットを作ってもらってよかった」と、そう思ってもらえるような仕事ができればと思います。

ーーこれから野球を始める子どもたち、今野球に熱中している子どもたちへ何か一言お願いいたします。

自分自身、中学・高校・社会人とソフトテニスをやっていました。勝つために練習を重ねるのは辛かったこともありますが、やはりテニスが”好き”だったんですよね。だからこそ長年頑張ってこれた。

野球の試合でヒットを打ったときや、練習で学んだプレーができたときは、きっと嬉しい瞬間なはず。だから、これから野球をする子どもたちには野球を好きでいてほしいと思います。

取材協力

公益財団法人 野球殿堂博物館

【理事長】 斉藤 惇
【所在地】〒112-0004 東京都文京区後楽1-3-61
東京ドーム21ゲート右側
【TEL】 03-3811-3600
【URL】http://www.baseball-museum.or.jp/