【元プロサッカー選手・佐藤寿人さんインタビュー】 選手時代も、引退してからも、本当にサッカーの本質である 「楽しい!」っていうところは全く変わっていません

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【元プロサッカー選手・佐藤寿人さんインタビュー】 選手時代も、引退してからも、本当にサッカーの本質である 「楽しい!」っていうところは全く変わっていません
2000年、ジェフユナイテッド市原でプロデビューし、その後、セレッソ大阪、ベガルタ仙台、サンフレッチェ広島、名古屋グランパス、ジェフユナイテッド市原・千葉と、21年間さまざまなクラブチームでプレーした佐藤寿人(さとう・ひさと)さん。
キャリア通算724試合で278得点を挙げ、2020年に現役を引退。現在は、テレビやYouTubeなどでのサッカー解説をはじめ、高校のサッカー部を訪れ選手たちと一緒にプレーするなど、サッカーの魅力を伝える活動に取り組まれています。
170cm、70kgと決して有利とは言えない体格でサッカーを続けていくため、つねに自分が「今何をすべきか」を考えてきたという佐藤さんに、サッカーを通じて学んだこと、楽しさや魅力について伺いました。

小学6年生のときにJリーグがスタート。プロサッカー選手になりたいという夢ができた

--サッカーを始めたきっかけは?

3歳の頃、父にサッカーボールを買ってもらったことがきっかけです。父は学生時代、部活動で野球をやっていたので、本当は野球をやらせたかったのかもしれませんが、僕と兄の勇人(元プロサッカー選手の佐藤勇人さん)が双子だったこともあり、サッカーならボール1つで遊べると考えたのでしょう。
小さい頃は、公園で兄や父と一緒にボールを蹴っていました。小学校に入学してからは、地元のスポーツ少年団「春日部大増(おおまし)サンライズサッカークラブ」に兄と一緒に入りました。
春日部大増サンライズサッカークラブは、実力的には春日部市では当時1、2を争うレベルでしたが、アットホームな雰囲気のクラブでした。強くなりたい、うまくなりたい、という選手から、そこまでレベルが高くない選手まで一緒に練習していて、さすがに公式戦では出場する選手は限られますが、練習試合などでは全員がピッチに立ってプレーできました。
また、クラブは自前で一面のグラウンドを持っていて、当時としてはまだ珍しいナイター設備もあって、夜8時くらいまでトレーニングできる恵まれた環境でした。

--その頃からポジションはフォワードだったのですか?

サッカーのなかでも特にゴールを決めることは楽しいと思ったので、子どもの頃からフォワードというポジションをやりたいと思っていました。
自分は3月生まれの双子で体が小さく、体格面では決して人よりも有利な状態でサッカーをしてきたわけではないので、自然と自分が置かれた状況のなかで「今自分が何をすべきか」ということを考えて行動してきたように思います。
1チーム11人いればいろんなレベルやタイプの選手がいて、そういったなかでみんなと力を合わせてゴールを決める、ゴールを守る、仲間を思いやる、そういったことを幼少期に経験できたことはとても有意義だったと思います。

--プロになりたいと思ったのはいつ頃ですか?

小学6年生のときにJリーグがスタートしました。プロで活躍する選手のプレーを見て、自分も将来プロサッカー選手になりたいと、夢を持つことができました。

父の勧めでジェフユナイテッド市原ジュニアユースへ。僕と兄のサッカーを応援してくれた両親に感謝

--中学ではジェフユナイテッド市原(以下ジェフ市原)ジュニアユースに入られますが、そのきっかけは?

中学の部活動だと1年生はボール拾いという慣習が残る時代でしたから、自身の経験からも父はそういった1年間を過ごすのはプラスにならないと考えたようです。
その頃、ちょうどJリーグが開幕したてで、Jリーグクラブ傘下のユースチームが人気でしたが、僕は小学生の6年間で全国的な成績を残していたわけではないので、クラブチームに入るのは難しいと思っていました。
ですが父が、ジェフ市原のジュニアユースがおこなう入団セレクション前の夏の時期に「息子たちのプレーをみてもらえませんか?」と連絡をして、特別に練習の機会をつくってもらったんです。
こうしたときの父の行動力は本当にすごくて、もともと父は春日部で中華料理店を開いていたのですが、ジェフ市原ジュニアユースへの入団をきっかけに中華料理店をたたみ、仕事も変えて、家族全員で千葉県(八千代市)に移り住むことになりました。

--引っ越しやお仕事も変えられるなど、ご両親のサポートがすごいですね?

父は中華料理店を開いていたときも、日曜日にはいつもお店を閉めて、僕たちの試合にきてくれていました。そのうちに父は審判の資格を取得して、僕たちの試合がないときには他のチームの試合で笛を吹くなど、自分でもどんどんサッカーのことを勉強して、それこそ中学から入れるクラブチームなどを調べてくれたりして、僕らのことを応援してくれていました。
また、母も小学生の頃は父のお店の手伝いに出ていたので、僕らはいわゆる鍵っ子でした。学校から帰り、自分たちで鍵を開けて家に入ると、母が仕事の合間に用意してくれたおにぎりなどの補食が置いてあって、僕らはそれを食べて練習に行っていました。
母は朝から晩まで家のことをして、お店を手伝って、僕らのサッカーのことも応援してくれて、本当にゆっくり休んでいる姿をほとんど見たことがありませんでした。だから本当に、両親には一番感謝しなければいけないと思っています。

--子どもの頃、ご両親の教えで覚えていることはありますか?

あまりあれこれ言われたことはないのですが、挨拶はきちんとするように言われていましたね。あと、サッカーなどで相手の文句を言ったときは、すごく怒られた思い出があります。父も母も普段はほとんど怒りませんが、そういうダメなことをしたときにダメだと言ってもらえたことは、子どもながらに良かったと思っています。

--ジェフ市原ジュニアユースはどんなところでしたか?

多くは千葉県在住の選手でしたが、東京や埼玉から電車を乗り継いで通ってくる選手も結構いて、実力的には本当にレベルが高く、つねに自分をアピールする姿勢が求められました。
今は違いますが、当時は1年単位でセレクションがあって、最初30人くらいいた選手が1年後には半分くらいになってしまったので、改めて厳しい世界なのだと感じていました。
指導者の方々は本格的にサッカーを勉強されているプロの指導者の方々でしたし、技術的なことや考え方の部分も教えてもらいました。また、ボールを蹴る、扱う、というところだけではなく、サッカーのプレー中のさまざまな動きを、神経系がいちばん発達する年代のときにトレーニングできたことは良かったと感じています。
今でこそ「コーディネーション※」と言われる神経系のトレーニングは一般的となってきましたが、当時はまだ珍しく、こうした最先端のトレーニングはとても有意義な経験となりました。
※コーディネーショントレーニングとは…
素早く動くための敏捷性、巧みに動くための巧緻性、姿勢をうまく整えるための平衡性などの向上を目指すトレーニングで、身体の神経系との関わりが深く、神経系はスポーツ技能の習熟に強い影響を及ぼします。
神経系に関わる器官は、他の器官に比較して発育が早く、6歳で成人のほぼ90%に発達するため、早い年齢から神経系に刺激を与え、発育を助長し機能を高めると良いとされます。
そのため、小学生や中学生にかけて、多くの種類のスポーツや遊びを経験する中で、正しいフォームでリズム、バランス、タイミングを重視した動きを習得する等、調整力を高めるようなトレーニングを行うことが理想とされています。

少しずつプロへの自信が持てたユース時代、国体優勝時のメンバーは半数以上がプロに!

--高校生のときはジェフ市原ユースでプレーされますが、そこはどんな世界でしたか?

ユースのときは、本当にプロの一歩手前という年代で、それこそ先輩たちや同学年でも、その前の年まで一緒にやっていた選手が一人二人とトップチームに上がってプレーする、つねにアマチュアとプロの行き来があるのが、このユースの年代でした。
自分自身はU-16日本代表に選ばれ、日の丸をつけてプレーするという経験をさせてもらったことで、自分のなかでも少しずつ「プロになれるんじゃないか」と自信を持ち始めたのがこの頃でした。日本代表で世界の同世代の選手たちと戦えたことで、自分の現在地みたいなものを測ることができました。
この3年間は、とにかくすごく自信を得ることができたし、いろいろと状況が変わるなかで、得たものが非常に大きかったと感じています。

--ユースの時代には、千葉県代表で国体にも出場され、優勝されましたね?

千葉県は当時、僕の1つ上の代も国体少年男子の部で優勝していましたし、高校生の年代が本当にとても充実していて、そういったなかで県を代表して戦うことは、とても貴重な経験でした。普段であれば千葉県内でしのぎを削る選手たちと一緒のチームになるわけで、「この高校のこの選手と一緒にプレーしてみたい」と思っていたことが現実になって嬉しかったし、このときの国体が熊本での開催だったので、熊本の人たちと交流を持てたことも印象に残っています。ちなみに、このとき一緒に戦った優勝メンバーは半数以上がプロになりました。

--このユース年代で活躍されるなかで、佐藤さんがつねに意識されていたことは?

体格のこともそうですが、自分が今どういう状況にいるかというのはつねに意識していて、それこそユースのときだけでなく、引退するまでずっと、自分に足りないものを求めていました。
僕の場合、意識の矢印を外側に向けることよりも、内側に向けるほうが圧倒的に多かったと思います。もちろん試合になれば、勝ちたい、点を取りたい、という気持ちはありましたが、自分が「なんでもできる」「上手い」と思ったことはありません。
外をみればきりがないし、たとえば、相手が自分より上手いとか、自分より足が速い、と比べてしまうと、ときに妬みや僻(ひが)みといったネガティブな感情がどうしても出てきてしまいます。
相手を気にするよりも、まずは自分を高めなければ試合に出ることもできないし、昨日より今日、今日より明日という感じに、つねに上達していけるように積み重ねていく、こうした意識は、プロに入ってからもずっと同じでした。
幼少期の頃から人より秀でたものがなかったことで、こういう習慣が身についたと思うので、その点は良かったと思います。

対戦相手や仲間、審判に感謝して、フェアなプレーで力や結果を出し合うのがスポーツの面白さ

--佐藤さんは警告(イエローカード)が少ないことでもおなじみでしたが、もともとフェアプレーは意識されていましたか?

僕自身、若い頃などは思うように試合に出られずストレスが溜まっているときもありました。そういう精神状態で試合に出ると、当然いいプレーなどできませんし、審判のジャッジにも不満を抱きがちになってしまいます。

ディフェンダーの選手はチームのために体を張ってギリギリのプレーやチャレンジが求められることもあるため、結果イエローカードをもらってしまうということがありますが、フォワードなど点を取りに行く選手がイエローカードをもらう場合は、相手の激しい当たりでストレスを受け、その激しいプレーに対する報復であったり、審判に対して異議を唱えたり、チームのためというよりは個人的な感情やストレスでもらってしまうことが多いんです。
決定的だったのは、サンフレッチェ広島に移籍して、キャリアのなかで初めて出場停止となったとき。ちょうどチームとしてもJ1残留争いをしているときで、出場停止によって残留争いの鍵となるようなアウェーでの試合に自分が出場できず、結果チームはその試合に負けてしまい、自分は何をしているんだ、これはプロとして恥ずべき行為だと、深く反省しました。
そんなときは経験豊富な先輩から、「プレー以外のところに力を注ぐのは選手としていいことではない」と諭されました。また、審判の方が、生意気な発言をした僕に対して、いろいろと言葉をかけてくれて気づけたこともあります。
自分よりも年齢が上で経験のある方々の言葉は胸に刺さるものがありましたし、自分を叱ってくれる人の存在は大きく、「正すべきことはしっかりと受け止めて反省する」ことは、とても大事なことだと気づかされました。
僕自身、何度も移籍をしましたが、そうすると、試合でいがみ合ったり、罵り合ったりした選手とシーズンをまたいでチームメートになることがあって、そうなると気まずいわけです(笑)。
いつか仲間になるかもしれないのであれば、いっそのこと「敵」という表現をやめて「(対戦)相手」と言うようにしようと。相手チームも、審判の方々も、一緒にサッカー界をつくり上げている「仲間」なんだという意識を持つようになりました。
もちろん勝負の世界ですから、判定に納得のいかないときもありますが、そうしたときも相手を尊重して言葉を選んで発言するようになりました。審判の方はいいジャッジをしても称賛されることはほとんどありませんが、ミスをするとすごく批判されてしまいますよね。選手と同じように、審判の方々も大変なプレッシャーのなかでプレーを支えてくれていることに気づかされました。
現役時代にはフェアプレー個人賞もいただき、フェアな選手と評価していただけたことは、とても光栄ですが、もともと特別フェアな選手ではなかったので、そこは本当にいろんな人たちに導いてもらったおかげだと思っています。

--いろんな人たちからのアドバイスを、若い頃に受け入れることができたのですね?

若い頃は自分が望むようなキャリアを歩めていなかったので、必然的に周囲の声に耳を傾けないといけない状況にありました。チームメートには日本代表の先輩や外国人選手たちがいるなかで競争するという難しさがあり、生意気な若手選手たちは、そこで鼻をへし折られるといった感じがありました。
そこで、プロで戦ってきている人たちの言葉に耳を傾けると、先輩だけでなく、ときには後輩からの言葉も自分にとってプラスになる部分もあったので、最終的にはいろんな言葉に対して、一度耳を傾けてみて、それに対して自分で選択していくようにしています。
プロの世界に入って順調にキャリアを歩んでいたら、こうした「聞く」ことの大切さにきっと気づけなかったでしょうね。これも、幼少期の頃と同じように、自分が置かれている状況、環境によって、自然とそういう振る舞いや考え方を持つことができたのだと思います。

--フォワードとしてファールをしないように心掛けていたことはありますか?

相手と接触しそうで危ないなって思ったときは行かないようにしていました。自分の判断で、自分の感覚で、相手との距離感がいいタイミングで行けているときは、相手と接触するところでもファールにならないという感覚がありました。
ですが、自分がコントロールミスをして、相手との距離感が自分のタイミングじゃないときに、慌てて相手に向かってしまうと、ファールになったり、ときに相手をケガさせてしまったり、警告や退場の対象になったりしてしまうので、自分のタイミングじゃないと思ったら行かないようにしていました。
フォワードはもっと攻めるべきと思われるかもしれませんが、やっぱり相手のあるスポーツですし、無理をすれば相手にストレスやダメージを与えることになってしまいます。
自分のなかでは、相手をケガさせる行為の上で、いいプレーは成立しないと思っています。フェアなプレーのもとで、持てる力や結果を出し合うのがスポーツの面白さだと僕は思うので、もし「ケガをさせてもいいから相手に当たっていけ!」というような指導者がいたら、僕は、そんなことをしないと結果が出せないのならプレーをしない、と言います。
試合中、相手に向けて足の裏(スパイクの裏)を見せてタックルするような危険なプレーが出る場面がありますが、こうしたプレーにも、僕は足の裏を見せずにボールに触ることはできないのだろうか?と思います。こうした危険なプレーは、下手をすると、相手はぶつけられた脚の骨折やじん帯損傷など選手生命に影響が出る場合すらあるし、その後の人生も変えてしまうかもしれない。こうした場面で他の選択肢が持てないのだったら、それはフェアなチャレンジではありません。
こういうときは、頭を働かせずとっさに足の裏が出てしまっていると思いますが、相手に近い距離で足の裏を見せればどうなるか?そこを考えなければいけません。
他にもボールがないところで不必要にユニフォームを引っ張ったり、足を蹴ってきたりする選手もいますが、何が面白いのかなと思ってしまいます。
やっぱりフェアに、自分の持ち合わせているもので勝負し合える選手との対決のほうが、「プロとして本当の意味で勝負している」という感じがあります。逆に、自分の持ち合わせているもの以外でしか勝負できない選手のときには、ゴールというしっかりとした結果で見せつけたい、という思いがこちらのモチベーションにもなっていました。
1つのボールでおこなうスポーツですから、相手と接触する状況は十分ありえます。悪意がなくても接触してケガをする・させてしまうという危険はありますが、大事なのは、相手のことをしっかり考えながらプレーを判断できているか?ということだと思います。
対戦相手も、チームの仲間も、そして審判も、みんながいないと試合は成立しません。ですから、試合に関わる人は全員、一緒に試合をつくる仲間だと考え、つねにみんなに感謝の気持ちを持つようにしていました。

もともと人より秀でたものがないなかで、競技を続けてプロになるには、「考える力」が必要だった

--つねに自分がどうすべきか考えて行動されてきた佐藤さんですが、考えることの大切さを実感した出来事などありますか?

僕の場合、もともと人より秀でたものがないという思いが根底にあって、そのなかでずっと競技を続けてきてプロになっているので、自分にとって「考えること」はとても大切なことでした。
そんな僕にとって忘れられない出来事としてあるのが、プロになって、J1のジェフ市原からJ2のセレッソ大阪に移籍したとき。自分では、リーグのカテゴリーを下げることで、試合への出場機会が増えて順調にキャリアを歩んでいけると思ったのに、思うようにはいきませんでした。
なかなか試合に出られず、もがいた1年。練習場までの車の行き帰りの30分、うまくいかない状況のなかで、自分がどうしなければいけないのか?プロの世界で監督に使ってもらえるような選手になるには、自分の武器が必要で、その武器をつくるためにどうするべきか?ということを、ずっと考えていました。
振り返ってみれば、比較的若い頃に、こうして自分と向き合い「考える時間」を持てたのは良かったと思いますし、つねに努力をしないと次のステージに進むことができないという厳しい環境下にいられたことも結果的には良かったと思っています。

--佐藤さんが長く現役選手を続けられた秘訣は?

アスリートとしては、一般的に30歳前と30半ば(35歳頃)が体力的に伸びにくい年代だと思います。何もしなくても筋肉が減っていってしまう年代なので、年齢を重ねれば重ねるほど、若い頃よりもトレーニングの量が増えましたし、トレーニングに対する感度が変わってきたと思うので、最終的に、「長くプレーできたな」という思いと、「もっと若い頃から(トレーニングを感度よく)やれていたらな」という多少後悔のような思いがあります。今の選手たちをみてみると、若い選手たちはその感度が高いと感じています。
スポーツの世界ではよく“心・技・体”と言われますが、技術以上にやっぱり体力、体の部分を若い頃からどんどん強化していくことで、技術とメンタルの充実にもつながっていくと思います。
僕自身、キャリアを重ねていくなかで、30歳前後で体を作り直すことができましたが、もっと若い頃から取り組む必要があると思いました。
今ではワールドカップなどを見ても、ヨーロッパの舞台で戦っている選手たちは、本当の意味で“心・技・体”がたくましいと思います。いま日本でサッカーをしている子どもたちにも、技術や体力、もちろんメンタルの部分を含めて、目を向けていってほしいですね。

--佐藤さんにとってサッカーの魅力とは?

現役のときも引退したいまも、本当にサッカーの本質である楽しいっていうところは全く変わっていません。そう思えるのは、つねに自分にとって恵まれた環境でサッカーをしてこられたからだと思います。
ボールを蹴るというところ以上に、やっぱり仲間と、誰かと一緒にプレーできるという、そこがこの競技の一番の面白さで、それはサッカーを始めたときから引退するまで、もちろん引退してからも、仲間とボールを蹴っていると本当に楽しいなと思います。
なかでも一番楽しいのは、仲間とイメージを共有して、その仲間からのパスを受けて自分がゴールを決める、そしてその仲間たちとともにお互いを称え合う瞬間。それがより大きく感じるのは試合に勝ったときです。一人ではどうにもならないものを仲間とプレーすることで、喜びが大きくなる、これが一番のサッカーの醍醐味だと思います。
正直辞めたいと思ったときもありましたが、サッカーにはその思いを上回る楽しさがつねにありました。​​

--動画チャンネルでは高校生たちと一緒にプレーされたりしていますが、サッカーをしている選手たちにどんなことをアドバイスされますか?

僕は自分自身に特別なアドバンテージがあったわけではなく、いろんな部分で足りないものをいかに身につけて、選手としてやりたいプレーができるようになるか、ということをつねに考え、試行錯誤してきました。こうした経験はすごく身になると感じているので、自分で考えてプレーを決断していくということを、サッカーという競技のなかでおこなっていってほしいですね。
自分で考えて手に入れた成功体験は、間違いなく選手の成長につながります。指導者は声をかけてあげることは大事ですが、最終的にプレーの決断をするのはつねに選手ですから、やっぱり自分でプレーを決断できるように育ってほしいと思います。
僕自身、育成年代のときに「プロになれない」と2回言われました。そうした言葉が反骨心になるという考え方もあるかもしれませんが、違ったアプローチでもいいと思います。子どもは相当繊細だからそういった言葉に傷つき、その言葉で押しつぶされてしまう選手もいるかもしれません。
結果として、僕はプロになることができましたが、そこには自分よりも経験を積んできた先輩や尊敬できる指導者の方がいて、そういう大人たちに恵まれたと思います。引退時の会見でも述べさせてもらいましたが、本当に人に恵まれた選手生活だったので、そこは本当に有難かったと思っています。

佐藤寿人さんプロフィール

佐藤寿人(さとう・ひさと)
埼玉県出身。1982年3月12日生まれ。

2000年、ジェフユナイテッド市原でプロデビューし、その後、セレッソ大阪、ベガルタ仙台、サンフレッチェ広島、名古屋グランパス、ジェフユナイテッド市原・千葉と、21年間さまざまなチームでプレー。
2012年:JリーグMVP、Jリーグ得点王を獲得。キャリア通算724試合278得点を挙げ、2020年に現役を引退。現在は、テレビやYouTubeなどでのサッカー解説をはじめ、高校のサッカー部を訪れ選手たちと一緒にプレーするなど、サッカーの魅力を伝える活動に取り組まれている。