【陸上 走り幅跳び・橋岡優輝選手インタビュー】 跳ぶことが純粋に楽しい!この気持ちこそが、次に向かう僕の原動力

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【陸上 走り幅跳び・橋岡優輝選手インタビュー】 跳ぶことが純粋に楽しい!この気持ちこそが、次に向かう僕の原動力
写真提供:時事通信社

ご両親をはじめ叔父さんや叔母さんも陸上などで活躍された経歴があり、まさに「アスリート一族」という環境で育った橋岡優輝選手。しかしながら、幼少期から陸上の英才教育を受けてきたといったわけではなく、陸上を始めたのは中学生になってから、さらに本格的に走り幅跳びを始めたのは高校生になってからだと言います。
跳ぶことの楽しさを原動力に走り幅跳びと向き合い、ついに憧れの舞台に立った橋岡選手に、走り幅跳びを始めたエピソードや東京オリンピックの印象などについてお話を伺いました。

初の走り幅跳びは小学6年生の体育の授業で。この体験が陸上部に進むきっかけになった

--走り幅跳びを始めた経緯を教えてください。

小学6年生のときに体育の授業で初めて走り幅跳びをしたのですが、他の友達よりも遠くに跳ぶことができて、すごく楽しいと思いました。
この体験から、中学校では陸上部に入りましたが、走り幅跳びに専念できる環境がなく、110mハードル、砲丸投げ、走り幅跳び、400mの4種競技をおこなっていました。中学3年生のときには全中(全国中学校体育大会)で3位になったことで、もっと本気で陸上をやってみたいという気持ちが強まり、高校は叔父のいる八王子高校に進学。叔父である渡辺先生の指導のもと、ハードル、走り高跳び、走り幅跳びの3種目をおこなっていましたが、高校2年生のときに走り幅跳びが一番記録が出たこともあり、そこから走り幅跳びに絞ってやっていこうということになりました。

--お父様は棒高跳びの選手だったそうですが、棒高跳びをやろうとは思わなかったですか?

父は選手だったとき跳躍に失敗して5m以上の高さからマットの外に落ちて大ケガをし、祖母や母はとても怖い思いをしたそうです。そのため、祖母や母の反対もあり、棒高跳びという選択肢はありませんでした。

--ご両親から積極的に陸上を勧められるようなことはなかったですか?

父も母も陸上の選手でしたが、両親から陸上をやるように言われたことはありません。二人とも、僕の人生は僕の人生だからというスタンスで、僕がすることにあまり介入しません。小学生の頃、親から何かするように言われたのは勉強くらいだったと思います。

世界を意識したのは高校3年生のとき。U20世界陸上優勝でつかんだ手応え

写真提供:時事通信社

--練習を辛いと思うことはありますか?

本当に跳ぶことが好きでやっていることなので、トレーニングにしても強制的にやらされていたという記憶もないですし、自主的におこなってきたので練習を辛いと思ったことはありません。
周りから見たらストイックに映るかもしれませんが、自分がいい跳躍をするためにおこなっていることなので、僕自身にストイックにやっている意識はありません。
記録が伸び悩んだりすることはありますが、特にそれを壁と感じることもありません。ですが、「楽しい」という気持ちがなければ、もっと大きな壁にぶつかっていたのかなと思います。

---楽しい気持ちというのは環境がそうさせてくれている部分もありますか?

そういう部分も大きかったと思います。両親をはじめ本当にチームメートにも恵まれていたので、陸上で思い悩むというか、辞めようと思ったこともないですし、ここまで順風満帆に来ているのかなと思っています。

-好きな言葉は「有言実行」とお聞きしましたが…

インターハイに出発するときに「頑張って!」と声をかけてくれた友達に、「優勝してくるよ!」と返したんです。結果、その大会で優勝して、帰ってきたところその友達から「有言実行だね」と言われました。その言葉がすごくしっくりきたので、それ以来、僕の好きな言葉になっています。

--世界で戦えると思ったのはいつ頃からですか?

高校3年生のときに出場したU20世界陸上で優勝できたことで、世界のレベルを知ることができ、世界が見えてきたと感じました。と同時に、ここからさらにシニアの世界にいくためには自分に何が足りないかということを色々考え始めるようになり、視野が世界にしっかり向くようになりました。

憧れのオリンピックの舞台は、「もっとここで勝負がしたい!」と思える場所だった

写真提供:時事通信社

--オリンピックの舞台に立った感想は?

僕は中学校の卒業アルバムに「将来オリンピックに出る」と書いていましたし、ずっとテレビで見ていた舞台に自分が立っていることに感動しました。緊張は特に感じていませんでしたが、終わった後にすごく疲労感を覚えました。
実際に競技をしてみて、オリンピックという舞台は、「もっとここで勝負がしたい」と思える場所でした。

--橋岡選手はスタートまでにかなり時間をかけているようでしたが…

スタート前は、助走の流れを考えたり、風を待っていたり、跳躍の条件としては追い風の方がいいので、そういった条件的な部分を待ちながら、自分の助走に入りやすいタイミングをつくっていました。

--6位入賞という結果についてどう思われますか?

嬉しさ1割、安心3割、 悔しさ6割といった感じです。目標にしていたメダルを獲得できなかったので悔しい気持ちが大きいです。
周りの方々から「おめでとう」というメッセージをいただいても、素直に喜べない自分がいましたし、オリンピックの後は、他の人がメダルを獲ったというニュースを見るだけでも、やるせない悔しさがありました。

「この結果は成長できた証し」。先へ先へと導いてくれる恩師の言葉と、心に残った応援

-- 橋岡選手を支えてくれている方々のなかで特に存在の大きい方は?

やはり叔父で高校時代のコーチである渡辺先生と、大学からお世話になっている森長先生の存在は大きいですね。
オリンピック後、モヤモヤした気持ちでいるときにも、「この結果は成長できた証。悔しいとは思うけれど、次のパリでは絶対にメダルを獲得できるから」と声をかけていただきました。この言葉をいただいたときに、競技者としてしっかり見てもらえていることを実感しました。
ユニバーシアードで優勝したときも、U 20での世界陸上で優勝したときも、その経験を次の糧にしようとつねに先へ先へと導いてくれて、こうした言葉がすごく自分の支えになっています。

-- 競技する上で、声援の力というのは大きいですか?

以前は試合会場で「頑張って!」と声をかけてもらっていましたが、無観客開催の大会が増えたいま、こうした声援は本当に力になっていたことを実感しています。
東京オリンピックは無観客での開催でしたが、SNSなどでたくさんの応援メッセージや激励のメッセージをいただきました。また、オリンピック当日は両親から「頑張ってきてね」と本当に普段通りの感じで送り出してもらいました。

ただ跳ぶというシンプルな競技だからこそ奥が深い。そこを突き詰めていくのが楽しい

--いい跳躍をしたときはどんな感覚ですか?

記録が出ているときは、自分の体感としても「あ、跳んでいるな」という感覚があります。実際、8mを超えると滞空時間は長く感じますね。
と言っても跳ぶのは一瞬のことですし、競技中は次の跳躍に向けて修正もおこなわなければならないので、そういった感覚を実感する余裕はほとんどありません。

--走り幅跳びの魅力とは?

走り幅跳びに限らず陸上競技全般に言えることですが、ただ走る、ただ跳ぶ、ただ投げるといったように見ていると簡単そうに見えるじゃないですか。
でも、そこに深さがあるというか、簡単ならではの難しさというのがあって、そこを突き詰めていく楽しさや、その深さゆえに飽きがこない楽しさというか、年々いろんな技術に取り組んでいく中で「あ、こんな技術もあるんだ」ということを知って、またそこに楽しさを覚えたりしています。
僕自身、楽しむ気持ちは本当に大切だと思っているので、スポーツをしているみなさんも、まずは「楽しい」と思えるように思いっきり競技に向き合ってほしいと思います。

--今後の目標について教えてください

今回東京オリンピックがあって、来年、再来年と世界陸上があって、その次の年がパリで、その次の年が世界陸上というふうに、世界大会が5年続くのでその中でうまくやっていけたらいいなと考えています。
また、今回日本人として37年ぶりに決勝に進出したことが報じられたように、まだまだ走り幅跳びで日本人が勝つことは難しいという考えが前提にあるので、体格差を理由にされないような活躍で道を切り拓いていきたいと思います。

JSPOフェアプレイニュースにも掲載

JSPOでは、全国の小中学校等に向け、フェアプレーの大切さを伝える壁新聞を発行しています。Vol.134では橋岡選手のフェアプレーエピソードや、子どもたちへのメッセージなどを掲載していますのでぜひ併せてご覧ください。

橋岡優輝選手プロフィール

橋岡優輝(はしおか・ゆうき)
埼玉県出身。1999年1月23日生まれ。
自己ベスト:8m36(2021.6 日本選手権)
主な代表歴:オリンピック(20東京)/世界選手権(19ドーハ)/アジア大会(18ジャカルタ)
富士通所属。