【新体操・畠山愛理さんインタビュー】「好きという気持ちの先に夢がある」

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【新体操・畠山愛理さんインタビュー】「好きという気持ちの先に夢がある」
「夢を追いかけ続ける」ということは、人生において素晴らしいことだと誰もが思っています。しかし、簡単には叶わない夢もあり、夢を目標として突き進む中で、さまざまな苦境や困難に直面することもあります。

挫折を味わい、夢を諦める人もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
元新体操日本代表(フェアリージャパン)の畠山愛理さんは、スポーツ選手として幼少期からの夢を追いかけ続け、「オリンピックに出場する」という夢を叶えました。しかし、その道のりは平坦ではなく、数々の困難があったそうです。

今回は畠山さんに現役時代のことを振り返っていただきながら、夢を諦めずに追いかけ続けることができた要因についてお話を伺いました。
取材日:2020年1月14日

新体操がとにかく好きだった小学生時代

--畠山さんは幼少期から本当に新体操がお好きだったと聞きました。
はい。もう常に新体操のことばかりを考えている子供でした。例えば小学校の図工の授業で「粘土でなにかを作る」となれば自分が新体操をしている姿を粘土で表現したり、自由に絵を描く授業であれば新体操のリボンを描いたり、家庭科でランチョンマットを作った時も新体操の手具の柄にしていました。

多分、そのランチョンマットはまだ、家にありますね(笑)

「新体操ができなくなるのが嫌」という理由で修学旅行にも参加しなかったくらい、とにかく新体操が好きで、他に比べられるものがありませんでした。頭の中が新体操しかなかったですね。
--本当に大好きだったんですね。小学校の卒業文集に「オリンピック に出場する」と書いた時のことを覚えていますか?
覚えています。ちなみに卒業文集に書くテーマとして先生から「将来の夢」を書きなさい、と言われたわけではなく、なにを書いても良かったんですよ。周りを見るとなにを書くか悩んでいる子とかもいたんですけど、私はすぐに「将来の夢」がテーマに決まり、「オリンピックに出場する」ということを書きました。
--ご両親はそんな畠山さんを見て、どんな様子でいらしたのでしょうか
私の両親はとにかく子供のことをよく褒めてくれました。当時の新体操の練習も厳しかったので、もし両親がスパルタ主義だったら「練習も厳しい、家に帰ってきても厳しい」という状況になり、なかなか休まらなかったと思うんです。

両親が優しかったことは私の中ではすごくバランスが良くて、オンオフの切り替えがやりやすかったです。

学校に行きながら新体操の練習ばかりしていた私は、家にいることが少なかったです。でも、毎日必ずお風呂上がりは母と一緒にストレッチをして、体が固かった私の背中を母がいつも押してくれて、その時間はストレッチの時間であるけれど、親子の貴重なコミュニケーションの時間でもあったと思います。

「今日はこんな練習をしたよ」
「こんなことができるようになったよ」

と母に話すと、母は必ず褒めてくれました。練習は厳しかったですが、母が喜ぶ姿を見ることで「もっと頑張りたい!」という気持ちになることができたんです。

体調不良とケガによる苦難から救ったのは、恩師の言葉と自分の夢

--そんな畠山さんでも、中学生の時に「新体操が嫌になった時期」があったとお聞きしました。本当に嫌になったわけではないと思いますが、その時のことを教えてください
はい。きっかけは体の不調だったのですが、中学一年生の時に、車椅子に乗ってくださいとお医者さんに言われるほど極度の「鉄欠乏性貧血」になりました。

練習では周りの子よりもバテるのが早い、くらいにしか思っていませんでしたので、コーチも私もそれが身体の悲鳴だとなかなか気がつきませんでした。そして中学二年生の時には腰椎分離症、腰椎すべり症というケガにも悩まされ、出場権を得ていた全日本中学校選手権を棄権するかどうか悩みました。コーチには「あなたは個人ではなく東京都の代表として出場するのだから大会には出なさい」と言葉をもらいました。でも、練習もしっかりできる状態でなかったので、結局大会は棄権することにしたんです。自分が情けないという気持ちや、周りの人たちにも申し訳ないという気持ちもあって。私に期待してくれていたからコーチも叱咤激励してくれていたと思うのですが、そのコーチとも少しずつこの棄権をきっかけにギクシャクするようになってしまって、気分が沈むことも多くなっていきました。

今思うと弱かったなって思うんですけど、練習へ向かうのも少しずつ苦しくなってしまって。小学生の時からあんなに好きだった新体操を嫌いになりつつある自分が受け入れられなくて、私にとって辛い時期を過ごしました。
--体調不良やケガがきっかけで、新体操に対する気持ちが変わっていったのですね
体調不良やケガは少しずつ良くはなりましたが、新体操に対して複雑な気持ちを抱えたまま中学三年生になりました。全日本新体操選手権大会に出場するための予選として、東京都大会、関東大会と出場するわけですが、気持ちが入らず、成績も振るわず、といった状況で。中3では自分の力では全日本の出場権を得ることができなかったんです。

…にも関わらず、推薦枠で全日本大会に出場させてもらえることになりました。

ただ、この時の私は自分でもビックリするぐらい新体操から気持ちが離れていて。練習もしっかりせず、こんな気持ちのまま選ばれて全日本に出場して良いのか? って思いました。

申し訳ないし、恥ずかしい。こんな気持ちで演技をしても良い演技ができるわけないって思った瞬間、生まれて初めて「新体操をやめたい」って思ったんです。
--あんなに好きで夢中だった新体操をやめたい、と。それでも、再び新体操に打ち込めるようになったのは、なにがあったからなのでしょうか
私は学校でも新体操のことを考えていたので、その時、辛すぎて授業中に泣いてしまって。そのことに担任の先生が気づいて、保健室に連れていってくれたんですね。その保健室の先生は、中学生の大会の新体操の引率の先生だったんです。

新体操がとても好きだった頃の私を知っている先生で、心を開いて話ができる存在でした。そこで初めて泣きながら今の気持ちをぶつけたんです。こういう事情があって、もう新体操をやめたいと思っています、と。

その時、先生が私に向かって言ってくれたのが

「新体操が嫌いっていう気持ちのまま新体操をやめちゃっていいの?」

という言葉でした。
先生は新体操をやめることに関しては止めませんでした。その上で、私が小さい頃からあんなに夢中になれた新体操に対し、「好きという気持ちを最後に思い出してからやめたら?」と提案してくれたんです。

「最後の全日本の大会は、自分のために演技をしてきなさい」

先生のその言葉を聞いて、私はすごく気持ちが楽になりました。最後に思いっきり自由に、小学生の頃のような純粋な気持ちで演技してみようと。

「どんな姿を見られてもいい。どうせ私はもう、新体操の世界から消えるんだから!」

それぐらいの気持ちでした。おかげで緊張もせず、楽しみながら演技をすることができたんです。あの時の先生の言葉がなければ全日本の舞台にも立っていないし、仮に立ったとしてもあの演技にはなってなかったと思います。
--ものすごい吹っ切れ方ですね! そこから、また新体操を好きになっていったのですか
全日本が終わって、すぐに「また新体操を頑張るぞ!」という気持ちに戻ったわけではありませんでした。最後のつもりで臨んだ大会が終わり、家でボーッとしていたある日、たまたま小学校の時の卒業文集を見つけたんです。

そこに書いてあったのは「オリンピックに出場する」という私の夢。文章から「新体操がとにかく好きで好きでたまらない」という気持ちが溢れていて、私ってこんなに新体操のことが好きだったんだ、と思い出しました。小学生の時に書いた私の言葉はものすごいエネルギーを持っていたんです。

そして、中学三年生で新体操日本ナショナル選抜団体のオーディションを受けました。「これで落ちたら本当にきっぱりと新体操をやめる。だけど、もし合格したら、今後はなにがあっても夢をあきらめない」という決意をしたんです。
(2009年12月、畠山さんは見事にフェアリージャパンオーディションに合格。新体操日本ナショナル選抜団体チーム入りを果たします)
--すごい。どん底の状態から一転し、オリンピック出場の夢が近づいた瞬間だったわけですね
最年少でフェアリージャパンに入って、すぐにロシア合宿が始まりました。ロシアのコーチに教わることになり、環境がガラッと変わって、新しい気持ちで新体操を始めることができたんです。
--その時のフェアリージャパンの他のメンバーは、畠山さんにとってどんな存在でしたか
最初は「ライバル」という意識が強かったです。この中からさらに代表メンバーに選ばれないと世界選手権やオリンピックに出場することはできないわけですから。でも、みんなで同じ寮で暮らしながら切磋琢磨している内に「家族」という感じに変わっていきました。廊下を歩くスリッパの音で誰がいるのかわかるようになったり。

山崎コーチから言われて今でも覚えているのは「相手は自分の鏡だと思いなさい」という言葉です。新体操団体はチームスポーツですから、ライバルという意識だけではまとまらず、良い演技になりません。

人との接し方とか、思いやりとか、フェアリージャパンで学んだことは新体操の世界だけではなく、自分の人生にも活かされていると感じます。

夢だったオリンピック出場が叶った瞬間

--2012年、ロンドンオリンピック出場。ついに子供の頃からの夢が叶うわけですが、この時はどんなことを思いましたか
小さい頃に思い描いた夢がついに叶った、という気持ちはもちろんありました。あとは、出場できない他のメンバーの分まで、その想いを舞台上で表現したいという気持ちが強かったです。合宿などを通してずっと一緒にいた、共に戦ってきた仲間ですので。

ビックリしたのは、オリンピック本番数日前になったらお友達などからすごくたくさん連絡をもらったことです。応援してるよ、頑張って、などのメッセージが次々に届いて、オリンピックの影響力の大きさを改めて感じました。世界選手権とかも同じ国際大会だけど、周りの注目度もやっぱりぜんぜん違うんだなって。

そして、演技中の2分半はものすごく楽しい気持ちでした。まさに「あっという間」という感じで。この気持ちをまた味わいたい、またこの舞台に立ちたい、と思いました。
--ロンドンから4年後、再びリオデジャネイロオリンピックにも出場しました。畠山さんにとってオリンピックとはどういう意味を持つものだったのでしょうか
私は新体操が大好きで、「好きという気持ちの先に夢がある」と思うのですが、オリンピックはすごいまっすぐに追いかけることができた大きな目標だったと思います。泣くぐらい悔しい気持ちになるのも、泣くぐらい嬉しい気持ちになるのも、それだけ命がけで目指せる夢があったからです。

新体操選手を引退した今、「今後の私の人生においてオリンピック出場ほど熱くなれる出来事は他にあるのだろうか?」と思うこともありますが、無理にオリンピックと同じぐらい大きな目標を見つけるというよりは、まずは色んな経験をしてみたいと思っているんです。

「いつか新体操と同じぐらい好きなものを見つけたい」という気持ちで日々を生きています。
--アスリートとしてスポーツを続けてきた畠山さんの経験の中で、どんなことが一番、支えになっていましたか
競技人生の中で、たくさんの方々に支えていただいたし、救われてきたと思っています。その中であえて一番の存在として挙げるとしたら、両親です。

一緒にストレッチをして、初めて180度開脚ができるようになった日や、いい演技ができた時には私と一緒に喜んでくれたし、新体操をやめたいと泣いた時には母も一緒に泣いていました。

「愛理が辛いときは私も辛い」と、自分のことで泣いている母の姿を見た時、母は私のことを支えてくれていただけではなく、私と一緒に戦い続けてくれていたんだ、と気がつきました。両親には本当に感謝をしています。
--素敵な家族の支えもあり、大きな夢を追いかけることができたのですね。かつての畠山さんのように今もスポーツを続ける人、夢を追いかける人にメッセージをいただけますか
人それぞれ状況が違うので、その時、その時に必要な言葉ってあると思うんです。なので具体的なアドバイスになるかはわかりませんが、「普段から夢を口にすること」はすごく大切だと感じています。

かつての私は、保健室の先生や両親など、周りの人に救われてきました。今思い返すと、周りの方々も、私の、新体操が大好きで、オリンピック出場という夢を追いかけていたことを知っていたから、その時の自分に必要な言葉や、沈んでいる時には背中を押してくれる温かい言葉をかけてくれたんだと思います。

スポーツだけに限らず、何かが好きという気持ちや目指している夢があることは、積極的に周りの人たちに伝えていくと良いと思います。
【プロフィール】
畠山愛理(はたけやま あいり)
東京都出身。1994年8月16日生まれ。血液型0型。
2012ロンドンオリンピック、2016リオデジャネイロオリンピック 新体操団体日本代表
フェアリージャパン アンバサダー
株式会社スポーツバックス所属