【フェンシング・見延和靖選手インタビュー】 一歩踏み出す勇気を大切に。その先にあるワクワクする気持ちを楽しんでほしい

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【フェンシング・見延和靖選手インタビュー】 一歩踏み出す勇気を大切に。その先にあるワクワクする気持ちを楽しんでほしい
写真©︎日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE

2016年リオデジャネイロオリンピック個人6位入賞、2018-2019シーズンには世界ランキング1位、日本フェンシング界史上初の年間王者に輝いた見延和靖選手。東京オリンピックではキャプテンとしてチームをまとめ、そして仲間とともに掴んだ団体戦での金メダル。
日本フェンシング界の第一人者として活躍する見延選手に、団体戦にかけた思いや、フェンシングとの出会いなどさまざまなエピソードについてお話を伺いました。

リオデジャネイロのときに感じた「次は団体戦で出場したい」という想い

写真(左が見延選手)©︎日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE

--リオデジャネイロオリンピックのときに感じたことは?

リオデジャネイロ(以下リオ)での日本チームは6人が出場しましたが、同種目(エペ)の男子は自分だけだったので、僕は個人戦のみの出場でした。
選手村ではイタリアやフランスなどの団体戦に出場するチームの選手たちがリラックスした雰囲気で楽しそうにしていて、その光景を見たときに1人で挑むことには限界があることや、チームで戦う大切さに気づきました。
それまでは自分のことで精一杯でしたが、リオを経験したことで、次の東京大会では団体戦で出場したいと考えるようになりました。

--東京オリンピックに向け、チームをまとめるために心掛けたことは?

キャプテンとして自分がチームを引っ張っていくとなったとき、チームメート同士が支え合っていけるようなチームを目指していこうと思いました。
そのため、「ああしろ、こうしろ」と自分の考えを押し付けるのではなく、ちょっと助言するような感じ(小耳に入れてあげるような感じ)で伝えるということを心掛けました。
オリンピック前の目標の置き方や過ごし方など、オリンピックを経験しなければわからないようなことをアドバイスしたり、自分の技術なども惜しみなく伝えたりして、みんなでレベルアップしていこうと考えました。
チームメートとはいえ対戦することもある選手たちなのですが、仮に技を盗まれたとしても、彼らがちゃんとアドバイスを聞いてくれていると思い、こちらも負けないようにさらに頑張るという感じでやってきました。

--チームをまとめる上で苦労されたことはありますか?

若い選手たちはそれこそ自分のことで必死ですし、フェンシングにはコレといった正解がなく、自分なりの正解を見つけていかなくてはならない競技のため、手探りの作業のなかで自分を好転させていくには、どれだけ自分を信じられるかが重要なポイントになります。
そういう状況のなかでは稀に、自分を正当化したいがため他のチームメートのことを否定するというような場面に出くわします。そんなときには、「自分のスタイルを認めてほしいのなら、まずは相手のスタイルを認めること」の大切さを伝えるようにしました。
いちばん苦労したのは、やはりコロナで思うように練習ができなかったことです。同じ目標で集まってきた仲間ではありますが、意識や考え方は人それぞれなので、目標を見失いがちになることがあります。
そういった状況のなか、オンラインでミーティングをして意思疎通をはかるなど、みんなが目標を見失わないように、自分が灯台となることを意識して過ごしてきました。

見てくれている人たちに感動を届けたい、「エペジーン」がチームの合言葉に

写真©︎日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE

--話題になった「エペジーン」という言葉はどのように生まれたのですか?

「エペ陣」「フルーレ陣」「サーブル陣」のように、陣営の「陣」と書いて「エペジン」と呼ばれていた言葉がもとになっています。
フェンシングには3種目あって、得点となる有効面がフルーレは胴体部、サーブルは上半身であるのに対して、エペは足先まで含めた全身と広いため難しく、一番勝てないとされてきたためフェンシングの中でも苦手な人がやる種目と思われていたところがあります。
でも、僕たちは自分たちの意志でエペという種目を選んで、自ら「エペ陣」の道を選んでいるということで、この「エペ陣」に対する思いがどんどん膨らんでいって、気持ちが入るにつれて「ジーン」とのびてきて…といった感じで、「エペジーン」という言葉はチーム内に自然発生してきました。
いつしかそこにプラスして、日本人が勝てないと言われたこの種目で勝つことで、見てくれている人たちに感動まで届けられるような、そんなチームになっていこうということで「エペジーン」がチームの合言葉になっていきました。

--金メダルを獲得して変わったことは?

フェンシングはまだまだメジャースポーツではないので、まずはフェンシングをいろんな人に知ってもらい、体験してもらって、その魅力を感じてもらいたい、1人でも多くの人にフェンシングを楽しんでもらいたい、ずっとそういった思いがありました。
実際にオリンピックで金メダルを獲って、自分が所属するクラブチームでも、体験者や入会者が増えているという話が聞けるとすごく嬉しいですね。
いろいろなところで取材を受けたり注目したりしてもらえるようになったので、やはりオリンピックは他の大会と比べても影響力が大きく、さらにオリンピックの金メダルというのはとても価値があるものだと思いました。

フェンシングは高校生から。小学生で空手を、中学生のときはバレーボールをしていた

--子どもの頃からスポーツをやっていたのですか?

小学生のときは空手(フルコンタクト)をやっていて、北信越大会で2回くらい優勝しています。小学1年生のときにチラシを見て、親に「空手をやりたい」とお願いしましたが、そのときは、空手=瓦割りのイメージがありました(笑)。
中学校ではバレーボール部に入部しましたが、きっかけは、その中学校で一番強い部活に入ろうと思ったことでした。高校進学の際、何校かから推薦のお話もいただいていたのですが、中学3年生のときにフェンシングを体験する機会があり、やってみたらバレーボールよりも面白そうだと思いました。

フェンシングは父の勧めで始めた部分もあるので、自分から「このスポーツがやりたい」と思ったのは実は空手だけなんですよね。

--フェンシングと空手、共通する部分はありますか?

フェンシングは左構え(左手で剣を持つ構え)でやっていますが、フェンシング以外は全て右利きです。右利きなので、空手をやっていたときは左を前に半身で構えて、左でジャブ、右でストレートを打つスタイルでした。
フェンシングの突く動作というのはいわゆる格闘技のジャブに近い動作でもあるので、空手をやっていたから左手で剣を持っているし、特にフェンシングの中でもカウンターの攻撃を得意としていますが、そのタイミングとか間合いの取り方というのは空手をやっていたからこそ身についたものなのかなと思います。

--もともとお父さんがフェンシングをされていたのですね?

はい。ですが、フェンシングを勧められるまでは父がフェンシングをしていたとは知りませんでした。家にフェンシングの剣があるのは知っていたのですが、骨董品の1つだと思っていました。
見つけたときは、福井県の田舎に西洋の剣術の剣があるなんてと驚いた記憶がありますが、1968年の福井国体(第23回国体)のときに、母校である小学校がフェンシングの会場になったらしく、父はそこで初めてフェンシングに触れたと聞いています。
その後、国体の影響もあり、県内でフェンシングを部活にとり入れる高校が出てきたようです。僕が進んだ武生高校もその1つ。福井県にはフェンサーを育てる土壌が残っているのでしょうね。

心を整え、身体を整え、技術を整える。ピークをつくる(波を上げていく)ときに包丁を研ぐ

写真(左が見延選手)©︎日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE

--見延選手は試合前に包丁を研ぐとお聞きしましたが

アスリートの仕事として、僕はピークづくりのピーキングが一番大事なことだと思っていて、その波を上げていくために包丁を研ぐようにしています。
ピークをつくる、ピークの波を上げていくときは、まず心を整えて、身体を整えて、技術を整えて、という順番でつくっていきます。
そのいちばん初め、メンタルをまっさらな状態に整えるときに、包丁を研いで気持ちを整えるようにしています。

--なぜ包丁を研ごうと思ったのですか?

僕は刃物の街で知られる福井県の越前市の出身なのですが、地元のご縁で包丁をいただき、実際につくっている現場を見学させていただいたことがあります。
僕自身、日本代表ですが、その前に地元福井県の代表であるという気持ちを忘れたことはありません。包丁には地元の人たち、応援してくれる人たちの気持ちや魂が込められていると思っているので、包丁を研ぐことでそうした気持ちを感じつつ、自分の気持ちも研ぎ澄まされていくような感覚があるためです。

--県の代表として競い合う国体にはどんな印象がありますか?

国体には高校生のときと、その後も出場しています。高校生のときは「少年の部」で出場したのですが、「成年の部」の人たちと一緒に同じ福井県のジャージを着る感覚は、ここ(国体)でしか味わえない経験だと感じましたし、国体には国体でしか会えない人たちもいたので、そういった意味でもとても印象深い大会です。

フェンシングをしっかり理解すること。目標は職人であり、史上最強のフェンサー

写真©︎日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE

--見延選手の今後の目標についてお聞かせください

フェンシングは、特にエペの種目は、ただ動きが速ければ勝てるという訳でも、ただ力が強ければ勝てるという訳でもありません。ベテランの選手でも経験を活かして勝つことができますし、いろいろなところに勝つ要素が潜んでいるため、意外な人が優勝することがあります。
このことは、まだ誰もフェンシングというものを完全に理解できていないために偶然起きることだと思っています。勝ち負けで言えばもちろん「勝ち」なのですが、勝ち負けだけにとらわれずにフェンシングを突き詰めていくことが大事だと思っていて、こうした考え方は職人に通じる部分があるように感じています。
最終的な目標は、“史上最強のフェンサー”になること。このことを最大のテーマに掲げて、フェンシングを突き詰めていこうと考えています。

--世界ランキング1位や金メダル獲得されながらもまだ先を目指されるのですね

史上最強のフェンサーになるための通過点として、オリンピックの金メダルや、ランキング1位というものがあると考えています。
また、こうして今自分たちが活躍できているのも、先輩たちがいろいろ試行錯誤して、それこそ日本人は全く歯が立たない時代を経験されるなかで少しずつ打開策を見つけて、それを自分たちが引き継がせてもらったからこそ。
ですから、自分たちも金メダルを獲ったからおしまいではなく、後輩たちが今後も勝ち続けていけるように、技術や心構えなどを、僕自身もまだまだ自分のプレーで示していきたいと思っています。

--パリオリンピックについてはどのように考えていますか?

今回の金メダルがまぐれと言われないように連覇をしてしっかり日本の実力を示したいですし、日本国内にも技術とか常勝国としての感覚を根付けていきたいですね。
そのためにも、パリの団体と個人のメダルというところを目指して、計画していきたいと思います。

--最後にスポーツをはじめる子どもたちにメッセージをお願いします

僕自身、空手→バレーボール→フェンシングと、いくつかスポーツを経験して思うのは、新しいチャレンジとか、一歩踏み出すことはすごく勇気がいることで、その一歩がそのあとの百歩よりもエネルギーがいるものです。
だからこそ、その一歩というのは、必ずしも自分からじゃなくても、子どものうちは自分の可能性に気づけないことが多いので、親やコーチが後押しをしてあげることも大切だと思います。
もちろん「自分がやりたい!」「これだ!」と思えるものに出会えればいいのですが、そのためにもいろいろなことを経験するのはいいことだと思うし、始める一歩は誰かの後押しでもいいと思います。
その一歩は難しいけれど、とりあえず経験してみる、チャレンジしてみる、怖がらずに勇気をもって踏み出してみることに、ワクワクする気持ちを持ってもらえたらいいのかなと思います。

JSPOフェアプレイニュースにも掲載

JSPOでは、全国の小中学校等に向け、フェアプレーの大切さを伝える壁新聞を発行しています。Vol.137では見延さんのフェアプレーエピソードや、子どもたちへのメッセージなどを掲載していますのでぜひ併せてご覧ください。

見延和靖選手プロフィール

見延和靖(みのべ かずやす)
高校時代に父親の勧めでフェンシングを始める。当初はフルーレ、エペを両立していたが、大学入学後エペに専念。主要学生大会での優勝に加え、広州アジア大会団体戦で銅メダルを獲得。NEXUS入社後は、五輪出場を目指し、イタリアへ単身武者修行も実行。力をつけ、日本男子エペ個人では初のワールドカップ優勝を成し遂げる。2016年のリオ五輪では悲願の個人戦出場、6位入賞を果たした。その後も輝かしい記録を打ち立て、2018-19シーズンは、ワールドカップ1勝、グランプリで2勝。世界ランキング1位となり、日本フェンシング界史上初の年間王者に輝き、2020年にはJOCシンボルアスリートにも選出された。日本のトップフェンサーとして東京 2020オリンピックで団体金メダル獲得。